私は王だけを打ち殺します(2サムエル17:2)
王に敵対するならず者の無益な脅しはカヤパの言い分に似ていたように思われます。それは「自分から言ったのではない(ヨハネ11:51)」のであり、私たちに「イエス様についてもっと」教えるために書かれものであります。致命的な一撃は「王だけ」に向けられていたものでした。というのは王は人々の「一万人の価値」があったからです。もし王が殺されれば、民は逃げねばなりませんでした。
別の箇所のダビデのことばは、そうあるべき偉大な反対の人物像の意欲を語っているのでしょうか。「わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください(1歴代誌21:17)。」「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれた(イザヤ53:8)」それゆえに、私たちが打たれたのではありません。決して私たちが打たれたのではないのです。
組み込まれている建物の代わりに避雷針を直撃する稲光はその燃え立つ力を消耗し尽くし、もはやそれ以上は撃たないのです。
別の箇所のダビデのことばは、そうあるべき偉大な反対の人物像の意欲を語っているのでしょうか。「わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください(1歴代誌21:17)。」「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれた(イザヤ53:8)」それゆえに、私たちが打たれたのではありません。決して私たちが打たれたのではないのです。
組み込まれている建物の代わりに避雷針を直撃する稲光はその燃え立つ力を消耗し尽くし、もはやそれ以上は撃たないのです。
「王だけ」なぜなら「主は私たちの罪のきよめを成し遂げられた(ヘブル1:3)」のだ
確かに その時 私たちはそのことと何の関係もなかった。
確かに 他のどんな人もどんな手段もいかなる関係もなかった
そして確かに 今や 何事も 誰も その偉大な事実に触れることができない
イエス様が「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました(1ペテロ2:24)。」それは人間の言い逃れやお節介の達し得ないはるかなことだ
「私たちが弁明をしなければならない(ヘブル4:13)」お方が
私たちの代わりに 神から殺されたという事実で 十分じゃないか
私たちは自らの救いの保証としてほかにどんなものを望むのか
「今は見えるということです(ヨハネ9:25)。」確かに その時 私たちはそのことと何の関係もなかった。
確かに 他のどんな人もどんな手段もいかなる関係もなかった
そして確かに 今や 何事も 誰も その偉大な事実に触れることができない
イエス様が「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました(1ペテロ2:24)。」それは人間の言い逃れやお節介の達し得ないはるかなことだ
「私たちが弁明をしなければならない(ヘブル4:13)」お方が
私たちの代わりに 神から殺されたという事実で 十分じゃないか
私たちは自らの救いの保証としてほかにどんなものを望むのか
けれども 焼き滅ばされる地と天の分離でなく
人に絶望的な叫びをさせる 恐ろしいビジョンでもなく
いや 私には厳粛な言明がわかる
すべての者が罪を犯した だからすべての者が死なねばならぬ
不服従の聖なる教訓 全世界は罪ありとせられねばならない
ちりに伏して 沈黙のうちに 今私には神が義であることがわかる
「今は見えるということです(ヨハネ9:25)。」
いや 私が愛しているのは
栄光でなく 主の御顔でなく
上なる不思議なる完全に燃え尽きる物語でもない
いや私は
神が話され どのように神の愛される御子が
人が破った律法をどのようにして守られたか
人が犯した罪のために死なれたかが わかる
死に よみがえり 上なる王とされた
今 私は 神が愛であることを知る
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-14-our-royal-substitute/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97513です。
※Godhold Beck(114)
『聖書とは何か』第二部[3]
今まで私たちは第一番目としてみことばを宣べ伝える者としての預言者について、そして第二番目はみことばを宣べ伝えるお方としての主イエス様について考えましたが、今度、第三番目になりますがみことばを宣べ伝える者としての使徒たちについて少しだけご一緒に考えて見たいと思います。「みことばを宣べ伝える者としての使徒たち」
神は新約聖書における使徒たちを通しても私たちに語られました。私たちは新約聖書においても神のみことばを受け、使徒たちのことばが、旧約聖書の預言者たちのことばと同じように、権威あることを正当に要求できる預言者たちを見出すことができます。主イエスは12人の弟子をお選びになりました。そしてイエス様は彼らを使徒とお呼びになったのです。ルカ伝6章13節に
夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
と、あります。「使徒」、すなわち遣わされた者たちはイエス様御自身によって召され、特別に呼び出され、装備を与えられ、彼らの口に神のみことばを与え、大いなる権威もお与えになりました。二、三ヵ所を見るとわかると思いますが、マタイ伝18章18節
まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
と。またマタイ伝10章の19節20節に
人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
ルカ伝10章16節
あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」
ヨハネ伝20章21節に
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
と、あります。使徒たちは主イエスのみことばの委託された宣教者です。このことについてそれは祈りの中で次のように言われたのです。ヨハネ伝17章14節と18節です。
わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
18節
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
と。主イエス様が使徒たちのもとから離れ、天に上られる時、使徒たちの口を通して今から語られるのは聖霊であると約束してくださいました。従って私たちは使徒たちの書いたものにおいて彼らを通して語られた聖霊の語るのを聞くことができます。
主なる神は新約聖書の中でご自身を啓示なさるのに12人の使徒たちだけに限定しませんでした。パウロのような使徒も全く同じようにお召しになったのです。ガラテヤ書1章17節に
先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。
と、書いてあります。パウロは諸教会の前で上からの召しを通して使徒であることを認められ、彼の福音が第三者からではなく、直接主ご自身から来るのであるのを強調し、そのことに最大の価値を置いています。
引用者註:前回がイエス様が預言者であること、前々回は旧約聖書の預言者について述べられていた。今日のところではイエスの弟子12人が使徒とされたが、彼らも預言者であることがその使命であったことがわかる。そしてそれは聖霊の働きに他ならないことが確認され、最後に新約聖書の多くの書を書いたパウロもまた預言者であることが示唆される。 )
※Godhold Beck(114)
『聖書とは何か』第二部[3]
今まで私たちは第一番目としてみことばを宣べ伝える者としての預言者について、そして第二番目はみことばを宣べ伝えるお方としての主イエス様について考えましたが、今度、第三番目になりますがみことばを宣べ伝える者としての使徒たちについて少しだけご一緒に考えて見たいと思います。「みことばを宣べ伝える者としての使徒たち」
神は新約聖書における使徒たちを通しても私たちに語られました。私たちは新約聖書においても神のみことばを受け、使徒たちのことばが、旧約聖書の預言者たちのことばと同じように、権威あることを正当に要求できる預言者たちを見出すことができます。主イエスは12人の弟子をお選びになりました。そしてイエス様は彼らを使徒とお呼びになったのです。ルカ伝6章13節に
夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
と、あります。「使徒」、すなわち遣わされた者たちはイエス様御自身によって召され、特別に呼び出され、装備を与えられ、彼らの口に神のみことばを与え、大いなる権威もお与えになりました。二、三ヵ所を見るとわかると思いますが、マタイ伝18章18節
まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
と。またマタイ伝10章の19節20節に
人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
ルカ伝10章16節
あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」
ヨハネ伝20章21節に
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
と、あります。使徒たちは主イエスのみことばの委託された宣教者です。このことについてそれは祈りの中で次のように言われたのです。ヨハネ伝17章14節と18節です。
わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
18節
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
と。主イエス様が使徒たちのもとから離れ、天に上られる時、使徒たちの口を通して今から語られるのは聖霊であると約束してくださいました。従って私たちは使徒たちの書いたものにおいて彼らを通して語られた聖霊の語るのを聞くことができます。
主なる神は新約聖書の中でご自身を啓示なさるのに12人の使徒たちだけに限定しませんでした。パウロのような使徒も全く同じようにお召しになったのです。ガラテヤ書1章17節に
先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。
と、書いてあります。パウロは諸教会の前で上からの召しを通して使徒であることを認められ、彼の福音が第三者からではなく、直接主ご自身から来るのであるのを強調し、そのことに最大の価値を置いています。
引用者註:前回がイエス様が預言者であること、前々回は旧約聖書の預言者について述べられていた。今日のところではイエスの弟子12人が使徒とされたが、彼らも預言者であることがその使命であったことがわかる。そしてそれは聖霊の働きに他ならないことが確認され、最後に新約聖書の多くの書を書いたパウロもまた預言者であることが示唆される。 )
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