私たちはこの道を通ったことがないが、主イエス様は通られた。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません(ヘブル4:15)。」その道は私たちにとってはすべて踏み慣れない、また知らない地であっても、主はその道をことごとく個人的な経験によって知っておられる。私たちの息をとめる急勾配の部分、足を大層痛めさす石だらけの部分、疲れを感じさせる、私たちが通過せねばならない早瀬、私たちの羊飼いなるお方は、私たちより前にそれを全部経験なさったのだ。
いくつかでなく、全部多くの水は主を越えて行ったが、それらは主の愛を消すことはなかった。「あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました(詩篇42:7)。」「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません(雅歌8:7)。」主は苦しまれたことによって完全な導き手となられた。「彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされ・・・完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となった(ヘブル2:10、5:9)」
なぜなら、今や主はそのことについて全部知っておられ、私たちが耐えられ得る程度にしたがってやさしく導いてくださる。 「というのは、主は、私たちの成り立ちを知っておられる(詩篇103:14)」そして、主は絶えず思慮が足りないという身に覚えのあるその手の知識をご存知であるだけでなく私たちがちりだということを覚えておられる。「神は、彼らが肉にすぎないことを心に留めてくださった(詩篇78:39)。」
主の導きのやさしさに疑問を持つように誘われるときそのことを考えなさい。主はすべての時を心に留めておられる。そして主はあなたの足が耐えられることを越えて一歩たりとも歩ませられないのだ。将来あるように見える歩みができないと考えるのなら、心配するな 。主はできるように強められるか、突然の停止を求められるので、あなたはその道を歩まなくてすむだろう。
主であるわたしは あなたと ともにある 恐れてはならない
わたしは あなたを 助け 強める 落胆してはならない
まことに わたしは あなたを 右の手で 支える
あなたは わたしの目の前で 立つように 召され 選ばれている
昼の子どもたちよ 前進せよ 恐れてはいけない
主のことばは 決して 決して 過ぎ去るものではないから
貧困者のためには 生計が 支えられる
悲しめる者 罪深き者には 主の恵みが 豊かになる
弱くされた者には 完全な強さが 見出される
For the year before us, oh, what rich supplies!
For the poor and needy living streams shall rise;
For the sad and sinful shall His grace abound;
For the faint and feeble perfect strength be found.
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-1-a-leader-you-can-trust/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97165です。 新年早々時間足らずでいい加減な訳だ。のちに再点検することにする。この程度の訳でもハヴァガルが一年の始めに何を考えようとしていたかはおぼろげながらわかる。
※Godhold Beck(132)
『聖書とは何か』第五部[1]
この間始まったテーマ、「旧約聖書についてのイエス・キリストの証し」とはいったいどういうものでしょうか、という点について、もう少し考えてみたいと思います。聖書が聖書にふくまれている一つ一つのみことばがほんとうに神のみことばであることを要求しているのでありましょうか。そして、また聖書の一つ一つの文字が神の権威を持ち、それゆえに永遠に続くものであるということを要求しているのでありましょうか。
私たちはこのことについて、イエス・キリストご自身よりも偉大な人に訊ねることができません。主イエスこそ最高の権威なのです。主イエス様は神の権威を持って旧約聖書全体を「神のみことば」と言っておられます。神のみことばは誰一人改善したり補ったり変更したりすることの出来ない永遠なるみことばです。イエス様は旧約聖書を百%信じていました。
主イエス様を信ずることは旧約聖書に対して同じように信頼を置くことを意味します。イエスは一つ一つのみことばが聖書に書いてあることを何度も保証してくださり、旧約聖書全体が真理そのものであることをはっきりとおっしゃいました。ですから、私たちは聖書のことばがどれもみな神のことばであることを他の方法で証明する必要はありません。真理そのものであるイエス様が聖書の霊感を百%信じておられますから、私たちもまた、聖書の霊感を信じることができます。
主のことばはあらゆる人間のことばや人間の理解力にまさるものです。聖書の霊感に対する決定的に大切なものは主イエスのお取りになられた態度でした。聖書はイエス様にとって力の源でした。イエス様が旧約聖書のみことばを引用する時、その確信は巌のように堅固なものでした。神のみことばは真理そのものであると、イエス様は信じて疑わなかったのです。もちろん、イエス様は旧約聖書の歴史的な出来事をも百%信じておられました。イエス様は創造の報告の完全な霊感をも信じており、イエス様はノアの洪水の報告も信じておられ、ノアの歴史的な人格をも信じておられたのです。またイエスは預言者ヨナについて書かれていることも文字どおり信じておられましたし、イエス様は十字架上で死の時を迎え、聖書のみことばがどれもみな神のみことばであることをはっきりと証なさいました。イエス様は詩篇の一つ一つのことばをお取りになり、それがご自身の死の瞬間に成就されたことをご存知でした。
よみがえりのあと、すなわちイエス様がもはやしもべの形ではなく、再び神の栄光を全きお持ちになられた時、旧約聖書のみことばは主にとって再び主の宣べ伝えた土台と内容になりました。旧約聖書全体を完全に洞察なさったイエス様はよみがえられた時、エマオの途上で弟子たちに出会ってくださり、ご自身の確信しておられることをお伝えになられました。ルカ伝24章27節ですが
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
と、書いてあります。
引用者註:「真理そのものであるイエス様が聖書の霊感を百%信じておられますから、私たちもまた、聖書の霊感を信じることができます。」というこの論法は、ベックさんの全生活の土台でもあった。)
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