2017年1月12日木曜日

みことばを受け入れる者はみことばの力を体験する

ハヴァガルの詩※

みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとする(エペソ5:26)

『聖書とは何か』第六部 [完]

 今日もっとも必要とされているものは、みことばに対する信仰と信頼の回復であり、すべてを主に明け渡すことにより、聖霊に満たされることです。私たちは自分の不信仰と疑いによって主を悲しませたことを正直に言い表わして、悔い改めるべきです。私たちは、主に対する不信頼という罪を主の血潮によって洗いきよめていただこうではありませんか。「信仰から出ないことはすべて罪である」と聖書は言っています。主に頼らない人生も罪です。しかし、主はあらゆる罪を赦したいと、切に願っておられます。そして、主は赦してくださると再び回復してくださり用いてくださいます。今までまちがって用いられていたみことばという剣を、主は再び私たちに返してくださいます。エペソ書6章17節に「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」

とあります。神のみことば、すなわち聖書全体を主は御霊の剣として、私たちに与えて下さいます。私たちは悪魔の巧妙な攻撃に抵抗し、悪魔のとりこから解放されたいと願うならば、みことばというこの剣をどうしても必要とするのです。主はみことばを私たちにも与えて下さったのです。ヨハネ伝17章8節に
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。

と、あります。繰り返し、繰り返し言われたように、「信仰」こそもっとも必要とされているものです。信仰の前提条件は本当の意味で聞くことです。なぜなら、聞くことから信仰が出て来るからです。ロマ書10章17節
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

と、あります。みことばの提供は同時に信仰の提供です。

 誰でもこの提供されたものを受け入れるか、拒否するか全く自由です。聞くことと信じることとは密接に結びついています。聖書の作者である聖霊は、神のみことばをとおしてまことの信仰を引き起こします。聖霊は神のご臨在を明らかにし、主イエスの栄光をあらわしていてくださり、それによってまことの信仰が生まれます。コリント第一の手紙2章10節に
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

と、あります。

 まことの信仰とは主イエス様に対する信仰、また主のみことばに対する信仰です。まことの信仰とは聖霊の働きの結果でありますが、しかし、人間が信じたくなければ、聖霊の働く余地はありません。誰も自分の力で信じることができません。しかし、誰でもみことばに対して心を開くことができます。人間が信じるか信じないかは意志の決断であり、理性の問題ではありません。信仰は神によって引き起こされます。しかし、信仰は決して強制ではなく、みことばの働きに対する私たちの意志の肯定です。したがって私たちが信じたいと思うかどうかという一つのことだけが大切なのです。

 信じるとは受け入れることであり、主のみことばを真理として受け入れる、そしてまたみことばにおいて事実、すなわち真理を受け入れることです。みことばを受け入れることはみことばを語った方を受け入れることです。みことばを受け入れることは主イエス様を受け入れることに他なりません。テサロニケ第一の手紙1章6節に
あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

と、ありますし、ヨハネ伝1章12節に
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

と、あります。神のみことばは、受け入れて欲しい、信じて欲しい、という主なる神の願いです。イスラエルの民は主イエス様を受け入れませんでした。主なる神はいつの時代にも信じる人たち、すなわちご自身を信じ、みことばを信じる人たちを探し求めておられます。創世記15章6節に、アブラハムは主を信じたと、書いてあります。弟子たちが信じた時、主イエス様の心に何という喜びが起こったことでしょう。ヨハネ伝16章31節に
イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。

と、あります。主イエス様は何度も何度も「わたしのことばを聞いて信じる者」という表現をお使いになられました。たとえばヨハネ伝5章24節に
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

ヨハネ伝3章16節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

6章47節
まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。

35節
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

7章38節
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

また、14章12節
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。

と、あります。

 「信仰」は神のみことばに対する鍵です。信仰者にはみことばが開かれます。信仰者は見えない世界を見ることができます。信仰者は開かれた天国を体験します。イスラエルの民については、彼らの不信仰のゆえに彼らは約束の地、カナンに入ることができなかったと記されています。ヘブル書3章19節に
それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。

と。主イエス様はみことばに対する弟子たちの不信仰を何度もお責めになりました。ルカ伝24章25節から27節までを読むとよくわかります。みことばを信じないことは主ご自身に対して自分の心を閉ざすことです。

 今まで私たちは主の要求として第一番目は「聞け」という要求、第二番目は「信ぜよ」という要求について聖書から見て参りましたが、最後に第三番目として「従え」という主の要求、またみことばの要求について見てみることにしましょう。みことばを受け入れる者はみことばの力を体験します。「従う」とは聞いたことを行うことであり、約束されたことを経験することです。なぜ、みことばが与えられたかと言いますと、それを行うためです。ですから、聖書の命令は「行いなさい」と言うのです。二三ヵ所お読み致します。申命記4章1節2節
今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。

5節6節
見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、はいって行って、所有しようとしているその地の真中で、そのように行なうためである。これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。

マタイ伝7章24節
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

ヤコブ書1章22節
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

使徒行伝6章7節に
こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。

ヤコブ書2章17
それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

26節
たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。

と。ヨハネ伝4章50節に
イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。

と。「従うこと」は主のみことばに従って主ご自身に従うことを意味しています。みことばは私たちの人生を変えてくれます。「光よあれ」と神は言われると、「光」が生まれたのです。従おうと思う人はみことばの力を経験するようになります。

 最後に二、三ヵ所読んで終わりたいと思います。コリント第二の手紙3章2節
私たちの推薦状はあなたがたです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

ペテロ第一の手紙1章23節
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

すなわち、回心はみことばを通してのみ起こるのです。エレミヤ記15章16節
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

みことばは私たちの必要とする食べ物です。

テモテ第二の手紙3章15節から17節まで
また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

と。すなわちみことばは私たちの人生を完成させる力を持っています。

エペソ書5章26節に
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、

と。

 私たちは主を見る時、主の御姿に変えられ、すなわち主に似た者とされ、みことばは私たちを通して実現されます。ヨハネ第一の手紙3章2節に
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

 Godhold Beck(143)
引用者註:かくして、このメッセージは終わっている。最後に今仲氏と思われる方のテノールで「我が光、我が造り主?」という歌がほんのわずか聞こえるので、ああ、これでこの第六部は終わりだとわかる。起承転結のスタイルを取りながらもベック兄のメッセージは「開かれた」終わりとなっている。そして私たちにみことばのすばらし魅力をふんだんに伝えて終わる。もし真剣にこのメッセージを受け止められるなら、私たちのそれぞれにみことばへの飢え渇きを今以上に与えられることと確信する。

※懐かしきハヴァガルの詩を載せよう。韻を踏んだ見事で簡潔な詩。
 それに配するは友 Baroness Helga von Crammの絵だ。
 興味ある方は昨年の3月24日前後のブログを参照されたし。
 Prasing together for all the way
 Now let us welcome our New Year's Day
 Rejoicing together in faith and love
 Hoping together for rest abobe )

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