強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。主はみこころにかなうことをされる。(歴代誌19:13)
ここでヨアブは「彼の前とうしろに戦いの前面に(19:10)」二つの軍隊があるのを知ります。彼は考えられる限りのもっとも賢い取り組みをし、兄弟を元気づけ、次のように言います。「主はみこころにかなうことをされる(19:13)」そして主がなさったことは彼に驚くべき勝利をお与えになることでした。彼が戦ったり蒙らなければならなかった損害は少しもないようにみえます。アラム人もアモン人も彼の前から逃走するばかりでした(15節16節)
「 アモン人はアラムが逃げるのを見て、彼らもまた、ヨアブの兄弟アブシャイの前から逃げて、町にはいり込んだ。そこでヨアブはエルサレムに帰った。アラムは、自分たちがイスラエルに打ち負かされたのを見て、使いを送り、川向こうのアラムを連れ出した(19:15〜16)。」こういうことは私たちの見本にするために彼らに起こったのでなかったでしょうか。もし型やベールの薄明であったいにしえの日々にあったヨアブがイスラエルの神様をそれほどまでに信頼していたのなら、イエス・キリストの御顔にある神様の栄光の知識の光を得ている私たちがどうして同じく従順な確信の表明をするのに躊躇していていいでしょうか。
あなたが なさりたいことを なさってください
そうです ただあなたが良いと思われることを なさってください
あなたは まことに愛なるお方です 知恵に富み 真理なるお方です
私にとって そのことは 最善です
あなたの なさりたいことを 寄越してください
打ちつける大雨 やさしい露 それとも 輝くばかりの日射し
静けき時にあっても 嵐の時にあっても 同様に
私の主であるあなたのご意志は なされます
そうです ただあなたが良いと思われることを なさってください
あなたは まことに愛なるお方です 知恵に富み 真理なるお方です
私にとって そのことは 最善です
あなたの なさりたいことを 寄越してください
打ちつける大雨 やさしい露 それとも 輝くばかりの日射し
静けき時にあっても 嵐の時にあっても 同様に
私の主であるあなたのご意志は なされます
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-4-let-the-lord-do/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97168です。
※Godhold Beck(135)
『聖書とは何か』第五部[4]
マタイの福音書の中では旧約聖書の27回以上のものからみことばが引用されています。しかし、マタイだけではなくヨハネもまたマタイと全く同じ態度を取ったことがわかります。すなわち、ヨハネもまた旧約聖書全体が神の権威によって書かれたものであり、霊感によるものであることをはっきりと証しています。イエス様と同じように、ヨハネもまた聖書をよく調べなさいと言いました。
ヨハネ伝5章39節に
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
と、イエス様ははっきり言われたのです。そして、モーセによって書かれたものは神の権威によって書かれたものであると言っています。同じくヨハネ伝5章46節47節に
もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。
と、あります。ヨハネは証明する時に議論などは一切しないで、「聖書にそう書かれています」という一言で片付けています。そしてヨハネは主イエス様が聖書すなわち旧約聖書をお教えになったと私たちに語っています。特にイエス様の受難の歴史においては旧約聖書が成就したことをはっきりとヨハネは私たちに示しています。ヨハネ12章14節です。
イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
と、ありますし、38節に次のように書いています。
それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
そしてヨハネ伝19章24節に
そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
と、ありますし、28節
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
36、37節に
この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。
と、書いてあります。そしてまたヨハネは証しを回顧しつつまとめ、旧約聖書とイエス様のお語りになったこととが全く対等に権威ある信仰の土台であると言っています。ヨハネ伝2章22節です。
それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
弟子たちは「聖書とすなわち旧約聖書とイエスが言われたことばとを信じた」とあります。福音書を書いた人たちがみな旧約聖書に関するこういう証しにおいて一致しています。そして旧約聖書の一つ一つのみことばは彼らにとって重味のあるものであり、純金とみなされ用いられます。
引用者註:この1970年代ころだと思われるベック兄のメッセージをお聞きすると、何と多くのことばが今日本語から消えて行っているような気がしてなりません。たとえば、「たいとうに」とか「じゅんきん」です。まがいもので満足している生活の中で、貴金属業者はそうではないでしょうが、日頃「じゅんきん」の価値は果たして今も存在しているのでしょうか、ふっとそんなことを考えさせられました。)
※Godhold Beck(135)
『聖書とは何か』第五部[4]
マタイの福音書の中では旧約聖書の27回以上のものからみことばが引用されています。しかし、マタイだけではなくヨハネもまたマタイと全く同じ態度を取ったことがわかります。すなわち、ヨハネもまた旧約聖書全体が神の権威によって書かれたものであり、霊感によるものであることをはっきりと証しています。イエス様と同じように、ヨハネもまた聖書をよく調べなさいと言いました。
ヨハネ伝5章39節に
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
と、イエス様ははっきり言われたのです。そして、モーセによって書かれたものは神の権威によって書かれたものであると言っています。同じくヨハネ伝5章46節47節に
もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。
と、あります。ヨハネは証明する時に議論などは一切しないで、「聖書にそう書かれています」という一言で片付けています。そしてヨハネは主イエス様が聖書すなわち旧約聖書をお教えになったと私たちに語っています。特にイエス様の受難の歴史においては旧約聖書が成就したことをはっきりとヨハネは私たちに示しています。ヨハネ12章14節です。
イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
と、ありますし、38節に次のように書いています。
それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
そしてヨハネ伝19章24節に
そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
と、ありますし、28節
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
36、37節に
この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。
と、書いてあります。そしてまたヨハネは証しを回顧しつつまとめ、旧約聖書とイエス様のお語りになったこととが全く対等に権威ある信仰の土台であると言っています。ヨハネ伝2章22節です。
それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
弟子たちは「聖書とすなわち旧約聖書とイエスが言われたことばとを信じた」とあります。福音書を書いた人たちがみな旧約聖書に関するこういう証しにおいて一致しています。そして旧約聖書の一つ一つのみことばは彼らにとって重味のあるものであり、純金とみなされ用いられます。
引用者註:この1970年代ころだと思われるベック兄のメッセージをお聞きすると、何と多くのことばが今日本語から消えて行っているような気がしてなりません。たとえば、「たいとうに」とか「じゅんきん」です。まがいもので満足している生活の中で、貴金属業者はそうではないでしょうが、日頃「じゅんきん」の価値は果たして今も存在しているのでしょうか、ふっとそんなことを考えさせられました。)
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