神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ6:33〜34)
※Godhold Beck(145)
『主なる神によって愛されている日本人とドイツ人』(中)
まあ、戦争後ドイツ国家は解体され、四つの占領地域に分けられました。産業設備は壊され、外国へ運ばれました。お金は全く価値が無くなりました。重要な研究者や科学者はロシアへ強制送還されたり、あるいは自分からアメリカに行ったりしました。なぜならば、彼らにとっては祖国ドイツに何の明るい見通しもなかったからです。つまりドイツは全く絶望的な状態に置かれ瓦礫の山だけが残されました。けども経済的な貧困を救うための国家の努力はやがて輝かしい成功をもたらしました。すなわち、世界中どこでも人々はドイツの経済奇跡について話合いました。日本も同じように、人が驚くようなこと、すなわちアジアにおける経済大国を実現したのです。
ですけども、ここで私は一つの問いを出して見たいと思うのです。すなわち根無し草のようになるもの、まあ心の支えを失った人間が経済的な貧困から救助によって本当に救われたのでしょうか。心が満たされるようになったのでしょうか。本当の幸せを得たのでありましょうか。残念ながら救われていないと言わざるを得ないのです。観念論のあとには、物質主義、すなわち「唯物論」と呼ばれるものが続きました。多くの人々のただ一つの目標は成功、福祉、安全、快楽と言ったようなことなんです。非常に恐ろしい結果は次のようなものでありました。「無関心さ」「順応」そして「妥協」なのではないでしょうか。
まず第一に「無関心さ」というものは、今日多くの人の状態です。多くの人々が世界の出来事の単なる見物人となってしまっているのです。つまり人々はテレビで世界の出来事を見るのです。けど、自分とは全く無関係だという気持ちで見物しているのではないでしょうか。まあ、この無関心の状態というのは実は非常に危ない、危険です。物質主義は多くの人々を惑わしました。人間は本当の価値に対して盲になってしまったのです。色々な報道機関、テレビ、映画、週刊雑誌などによって人間は非常に強く影響され、そのために多くの人々はもはや自分自身で物事を考えることができないほどになってしまったのです。今日一体どこで家庭の団らんが見られるのでありましょうか。家庭の中でお互いに気持ちよく語り合い、色々な問題について話し合い、また妻や子どものために時間を作り出すというようなことが行われていることは非常にまれなのではないでしょうか。
先ほど述べたようなテレビなど多くのものが人間から静けさを奪いました。多くの者はもはや、物事をじっくりと考えたり、物事を正しく判断することができなくなってしまったのです。いわゆる大衆人間の反対は「人格者」であると言えます。ここで人格者とは群衆とか大衆とか呼ばれている者とはちがったことを考えたり、行ったり、ふるまったりすることを、あえてできる人なのではないでしょうか。皆のしていることを同じことをするのはおかしい、人間らしくない、自分自身の良心に従って行動しようという人は何と少ないのではないでしょうか。西郷隆盛とか上杉鷹山、二宮尊徳とか中江藤樹というような代表的な日本人は今日どこにいるのでしょうか。
戦後のもう一つの特徴は「順応」です。人間は結局、自分のことばっかり、あるいは自分の利益のことばっかり考えているために、順応するのです。自分だけのことを考える人は決して人間の名前にふさわしくない、と言えます。つまり本来人間のもとの意味は上を仰ぐ者、そういう意味です。下ばかり見て、自分のことばかり見ている者は、本来の人間の意味に結局ふさわしくない。残念なことに今日、信じたい、あるいは抵抗したい、あるいは何かを求めたい、何かのために一生懸命になりたい、というような意志は色々な形で失われてしまっています。抵抗することの代わりに順応したい。あるいは流されるままになっていたい。あるいは適当に譲歩したり、諦めたりしたいという気持ちが強く出てきたのです。
第三に「妥協」の危険があります。今日多くの人々はたくさんの宗教の奴隷もが、また何らかの真理をふくんでいるどの宗教でも救いを見つけることができると間違って信じ込んでいます。何百万もの人々が今日救いを求めていますけど、自己流で求めています。これは非常に危険です。まあ、私たちは同じことが現代のドイツ人と日本人についても言うことができるということを見てきました。すなわち、多くの人々が物質主義によって盲にされているのです。その特徴はマスメディアすなわちテレビ・映画・週刊誌というようなものによって「無関心」になっていること、そして自己中心によって「順応」という現象が持たれ、最後に苦しみを避けたいという気持ちから安易な「妥協」が生まれているのです。
次にドイツ人と日本人の違いについてちょっとだけ考えたいと思います。もちろん人は決して物事を一般化することは出来ません。私もまた決して批判したりなどという気持ちを持っていません。なぜならば、少なくともドイツと全く同じように日本が大好きであるからです。ですから、これからの言うことを愛の心から出ていることを是非、まあ、覚えていただきたいと思います。
第一に勤勉に働くということと、がむしゃらに働くということの間の違いを考える必要がある。次に職業と使命との間の違いに注意すべきであり、第三に宗教を持つということとまことの救いを自分のものとするということの間の違いも、もちろん大切です。
日本人とドイツ人は勤勉な国民です。けど、学生として勤勉に学習するか、あるいは非常にがんばるかということは一つのちがいです。日本人として生まれるということは確かに一つの生存競争に投げ込まれたことを意味しています。これはすでに幼稚園で始まります。ある幼稚園で入学試験があるんですって。そして幼稚園のために金を出すこととはドイツ人として考えられないことです。幼稚園も小学校も中学校も高校も大学ももちろんあります。学校の教科書ももちろん全部あります。そのために金を出すのはドイツ人にとってちょっと理解できないことです。
結局、まあ、よく試験地獄と言われています。本当にそうです。日本ほど子どもや若者が自殺している国は他にありません。政府の目標は平均以上に良い企業を持ちたい。また国民として平均以上に稼ぎたいために、平均以上に働くと言ったぐあいです。けども物質的な利益は人間個人個人のためになるのではなく、結局大きな会社のものとなり、政府の利益になります。日本は経済的に国民としては恐らく世界の第二番目か第三番目かになりますけど、個人としては15番目であると言われます。これは悲しむべき事実なのではないでしょうか。
まあ、日本の若者は自由ではありません。彼は学習し、さらにまた学習しなければならない。日曜日でさえも塾と呼ばれる補習校に行くのです。そのことはドイツでは政府は絶対に許さない。日曜日に大部分のお店が開いているということもドイツ人には考えられない。許されない。大学に入るまでの不自然ながむしゃら、あるいは猛烈さというものは私にはよくわからない。けど、いずれにしてもその結果は良いものであると言えないでしょう。もちろん、私たちはこの教育制度から脱出することが非常にむつかしいのは知っています。
第二にある人は仕事のことを一番大切にし、もっと大切なことを全く無視してしまうか、あるいは自分の職業を生きるという目的のための一つの手段と見るかということは大きな違いなのではないでしょうか。ドイツ人として、私はしばしば子どもたちが学校に束縛されているのと同じように、大人は会社に束縛されているという印象を受けます。どれほどの残業がなされていることでありましょうか。たとえ休暇が認められていても大部分の場合は休暇を取らない。ドイツは誰でも、夏休み誰でもまとめて四週間の休暇を取ります。当たり前です。会社全体休みです。大部分の人は、ある会社の就職すると、55歳までその会社に留まる。会社を変えるということは非常に少ない。というのは一つの会社に長くいれば給料と地位が自動的に上がるからです。ドイツでは勤続年数ではなく、実際の能力だけが大切にされます。ですから、全く若い人がやがてある会社で高い地位に就くことが出来ますし、他の人は二十年、三十年も働かなければその地位に就くことができないということが実際問題としてあります。
まあ、日本ではしばしば個人の率先というものが許されてもいなければ望まれることもありません。ドイツでは反対に促進されます。つきあいというものももちろん実際ドイツに存在しません。職業は目的のための一つの手段に過ぎない。男の人はしばしば自分が先ず第一に自分の家族のためにしなければならないことをします。それは家族のために時間をつくるということの中にもあらわれています。家族のためにお金を与えるだけじゃなく、時間をつくることは、なくてはならない大切なことになっています。実は職業が一番大切なのではなく、職業のために時間をつくらないということではなく、自分の使命にふさわしく生きるための手段として職業があるべきです。使命感が欠けると視野も狭くなる。そのために多くの人は枝葉のこと、また過ぎ行くこと、はかないことに満足を見出そうとするようになります。その結果、永遠に続くものや将来のことを考えることができなくなってしまいます。
第三にある人が宗教を持っているか、あるいは本当の救いを自分のものとしているかの間には非常に多くの違いがあります。ほとんど大部分の人はキリスト教がたくさんある宗教の中の一つであると思っています。そしてイエス・キリストの教会は多くの人には利益団体のように思われます。そして彼らは教会というものは自由に出入りできるものと思い込み、徹底的に重要な意味を持っていることを知りません。いずれにせよ、彼らにとっては会社の利益が一番大切です。こういうふうに考えている人は教会に属していたり、あるいは洗礼を受けているかも知れませんけど、一番大切なことが欠けているのです。すなわち、あらゆる束縛から解放し、本当の自由を与えるイエス様が欠けているのです。
引用者註:ベックさんの誤解された言い回しの一つに「がんばらなくっていい」という言い方がありました。「がんばらなくっていい」と言われた人の中にはそのことばによって重荷を下ろすことができた人が多かったのですが、中にはベックさんが何もしなくってもいいと言ってるんだと受け取ってつまずいた人もいたようです。しかし、この講演をよく聞いてみるとベックさんが「がんばらなくっていい」と言われていたのは、本当のものを見失った「がむしゃらな精神」に陥りがちな日本人のことを心配されていたことがよく分かります。)
2017年1月14日土曜日
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