2017年1月26日木曜日

無題(中)

 そしてイエス様はその当時いわゆる宗教的な指導者たちとされた人々に対しても、厳しく戒めたのです。ほんとうに最も強いことばでしょう。マタイ伝の23章13節と14節です。
しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。

 これらの箇所を通して、誰でも与えられる光、すなわち上からの啓示によってさばかれることがわかります。そして福音をもたないいわゆる異邦人であっても責任を持っていると聖書は言っているのです。ロマ書によるといわゆる啓示には三つのものがあることがわかります。すなわち第一は創造であり、第二番目は人間に与えられている良心であり、もう一つは聖書であります。ロマ書1章の20節にパウロは当時のローマにいる人々に次のように書きました。1章の20節です。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

 この大宇宙は人間の体もそうですけど、偶然にできてしまったと真剣に考える人はいないはずです。やっぱり創造主がいると人間は皆、例外なくわかっています。死にそうになれば、どういう人間であれ、皆「神様!助けて!」という気持ちになります。人間だからです。人間は皆神意識を持っているから、弁解の余地はないとここではっきり書かれています。次の2章14節
律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。

 すなわち、人間は誰にも何が良いことであり何が悪いことであるかということを良ーく知っている。たとえば、ドロボーする、大人でなくっても子どもでも皆んなの目の前でやらないよ、誰もわからないようにしようと思っているんです。当然です。良くないのはちゃんとわかっているんです。だから何があってもやっぱり人間は隠したい。悪いと分かっているからです。いいものだとわかれば別に隠さなくっても良いでしょう。2章の17節
あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、みこころを知っている

とありますが、もちろん、聖書は最高の啓示です。この最高の啓示、すなわち聖書によって、神の義、神の愛、主なる神の救い、またさばきが、すべて告げられているのです。いわゆる異邦人は二つの啓示、すなわち創造による啓示と良心による啓示しか持っておりません。ロマ書は神の前に不従順であった者がすべて裁きの時に弁解の余地を持たないと言っています。

 いわゆる未信者はたとえ主なる神について何も聞かなかったとしても、主なる神の怒りを避けることはできません。というのは、不信心な者が自然や自分の良心の中にある神の偉大さを無視したからです。正直になろうとしなかったからです。「救い」を求めようとしなかったからです。「求めよ。そうすれば、与えられる。」ということばは何時の時代でも当てはまる主の約束であります。

 聖書は失われた者が自分の失われた状態に対して責任を持つことを要求します。誰も失われて行くことに対して言い逃れをすることは出来ません。いわゆる未信者、したがってイエス様の救いを素直に受け入れなかった者は主なる神に対する自分の罪を知らず、したがってそれを告白することもせず、したがって罪の贖いも体験していない。したがって、そのような人々は贖われることなしに神の裁きに引き渡されるようになります。

 私たちは次に未信者が死ぬと未信者の死者の国でも失われた状態にとどまることを聖書をとおして見てきました。この未信者の死者の国は良くなると(いう)目標を持っているのでしょうか。それともただ神のさばきを待っているだけなのでしょうか。未信者が死んだ後にいつか神の恩恵に浴するというようなことがあるというようなことについて聖書は何か言っているのでありましょうか。これに対して聖書は全然その希望がないことをはっきり示しています。なぜならば、死んだ後も死んだ瞬間の状態が変わることなく続くと、聖書ははっきり言っているのです。しかしながら、他方において神は被造物を決してないがしろにせず、あらゆるものを救いの手段にしようとしておられます。父なる神、御子、そして聖霊は「救い」というこの一つの目的のために絶えず心を砕いていてくださるのです。

 イエス様はヨハネ伝6章45節で次のように言われました。
彼らはみな神によって教えられる。』と書かれています

大部分と書いていない、皆。皆は皆です。12章の32節
わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

とも書かれています。それからよく引用されるヨハネ黙示録の3章の20節、天にお帰りになったイエス様の招きのことばです。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

結局、主はちっぽけなどうしようもないわがままな人間と交わりを持ちたい。考えられない、あわれみであり、恵みであり、すばらしい宝物です。またヨハネ伝16章8節にイエス様は聖霊の働きについて次のように言われました。
その方(すなわち聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

このみことばから父なる神、御子なる主イエス様 、そして聖霊はすべての人が救われることを心から望んでおられることがわかります。出エジプト記の8章に次のように書かれています。出エジプト記8章の19節です。
呪法師たちはパロに、「これは神の指です。」と言った。

と記されていますが、このことからわかるようにまことの神を退けた彼らでさえも「神の指」を認めざるを得なかったのです。誰でもこれは神の働きであると素直に認めざるを得ないときがあります。自然はあらゆる人に語りかけ、良心は人間に罪の念を起こし、聖霊は一人一人の心の戸をたたいているのです。自然と良心と聖霊が人間に囁きかけることによって、人間は永遠のいのちを持ちたいという切なる思いに目を開くようになります。けど、残念なことに多くの人は罪から離れることをせずに闇の中にとどまることを好んでいるのです。ですから、イエス様はヨハネ伝3章19節に次のように言ったのであります。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。

「隠す者は成功しない 」明るみに出された罪は光である。もう罪ではないと聖書ははっきり言っているのであります。ほんとうに求めている素直な人は必ず必要な光を持つようになり、「救い」に導かれるようになります。「主は直ぐな人たちのために、光を闇の中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる」と詩篇112篇の4節に書かれています。詩篇の素晴らしい聖句です。主の啓示そのものであります。何らかの方法でもって主はそれらの人々にご自身を明らかになさいます。たとえばコルネリオとエチオピア人の宦官は素直な正直な人であったため主なる神は彼らにペテロとピリポをお遣わしになったのです。ちょっと読みましょうか使徒行伝の10章10節から
すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。見ると、天が開けており、大きな敷布のような・・・

(引用者註: 残念ながら、このメッセージはここで切れている。コルネリオはわかるが、エチオピア人の宦官についてどのようなことが語られるのか知りたい思いがするが今のところわからない。またそれらしきものが見つかったら聞き書きをしたい。でもこれだけでも昨日ちょっと述べた知人のお母さんの死について考えさせられたことの答えは何となく出ているような気がする。さて、その知人のお母さんについてNHKのアーカイブスに録画があることを昨日知った。参考のためにサイトアドレスhttp://cgi2.nhk.or.jp/postwar/shogen/movie.cgi?das_id=D0012100042_00000を載せる。ご覧いただき、ともに考えていただければ幸いである。[GB157]本日のスパークスは1月9日分を『霊的成長とは何なのか』という題名で訳出した。なお本日の1月26日分は『自我の終着駅』と題して2011.1.26に訳出済みである。併せてお読みいただければ幸いである。http://stryasheep.blogspot.jp/

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