草の葉先に弱々しげに吊り下がっている、可哀想な小さな無色の水滴をごらんなさい。それは全然美しくありません。なぜあなたはそれを見るのをやめるのですか。太陽が昇り、すっかり新しくなるまで待っていなさい。水滴はダイヤモンドのようにキラキラ輝きます。そして、もしもあなたが別の側から眺めるなら、それはルビーのように光を放ち、エメラルドのように今しもキラリと光るでしょう。こうしてあわれな小さな水滴は今まであなたが見たものの中でもっとも輝ける愛らしいものの一つとなりました。
けれどもそれは水滴自身の輝き、美しさでしょうか。とんでもありません。もし水滴が一旦地面に落ちて日の光のらち外に出ようものなら、もはやあわれな汚い水滴に過ぎないからです。そのようにもし義の太陽であるお方、栄光あふれ愛する救い主があなたを照らされるなら、主ご自身の輝きと麗しさの小さな光線があなたの上に見られるのです。
時々私たちは太陽なるお方がそこに射し込んでいるのを人の顔にあらわれた幸福な光によって見ることができます。しかし、もし太陽なるお方が本当に照らし出されているなら、聖潔、愛、喜び、平和、親切、善意、信仰、謙遜、すなわち生活を、あなたの生活でさえも大変愛らしく彩る美しい光線の何本かがあるのは確かなことであります。
イエス様 主様 私は あなたのところに 参ります
あなたは かつて そうしなさいと おっしゃってくださいましたね
私に 私の生活がどんなものであったらよいか 話してください
私の罪を 取り去ってください
イエス様 主様 私は あなたを あなたの神々しい みことばのうちに
学びます そこに あらゆる お約束が あります
その約束は 私のものと 呼んで いいのですね
あなたは かつて そうしなさいと おっしゃってくださいましたね
私に 私の生活がどんなものであったらよいか 話してください
私の罪を 取り去ってください
イエス様 主様 私は あなたを あなたの神々しい みことばのうちに
学びます そこに あらゆる お約束が あります
その約束は 私のものと 呼んで いいのですね
Jesus, Lord, I come to Thee, Thou hast said I may;
Tell me what my life should be, take my sins away.
Jesus, Lord, I learn of Thee, in Thy Word divine;
Every promise there I see, may I call it mine!
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-6-reflecting-or-rejecting/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97170です。
※Godhold Bck(137)
『聖書とは何か』第五部[6]
もしも旧約聖書の霊感を否定するなら、パウロの書いたロマ書はいっぺんに崩れてしまうのです。なぜならば、ロマ書の半分は旧約聖書からの引用だからです。ちょっとロマ書から何ヵ所かお読みしたいと思います。1章2節
この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、 御子に関することです。
3章2節に
それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
9節
では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
3章21節
しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
4章3節
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
4章17節
このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
9章13節
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
9章17節
聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。
10章11節
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
また、パウロは他の手紙においても同じように旧約聖書のみことばを用いて書いています。コリント第一の手紙1章18節19節です。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
また、コリント第一の手紙2章9節です。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
と、書いてあります。3章19節には
なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。」また、次のようにも書いてあります。「主は、知者の論議を無益だと知っておられる。」
14章の21節
律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』と主は言われる。」
15章45節
聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
54節
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
と、あります。またコリント第二の手紙6章2節
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
16節から18節まで
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
と、あります。また9章の9節です。
「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。
テモテ第一の手紙5章18節に
聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。
と。ガラテヤ書3章8節
聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。
と、あります。そして16節
ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。
と、書いてあります。それからガラテヤ書4章の22節
そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。
27節
すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」
と、あります。
引用者註:みことばの引用が余りにも多く読者の中には辟易される方もおられるでしょうが、これらがいずれも旧約聖書の引用であることを注意していただきたいと思います。)
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