2017年1月24日火曜日

礼拝とは何か(下)

 最後に三番目に礼拝とはいったい何なのでありましょうか。礼拝とは己のもっとも愛するものをささげることです。サムエル上の中で、サムエルの母について、ハンナについて色々なことが書いてありますけれども、彼女は一つの願いを持っていたのです。「主よ、子どもを与えて下さい」と彼女は祈り続けたんです。そして主は彼女の祈りを聞き届けていて下さったのです。サムエルが与えられるようになったんです。与えられるやその子を主にお返し致しました。かかる人は主をまことに礼拝する礼拝者と言わなければなりません。

 主により良きものをささげることを知らない人はまことの礼拝を知らない人ではないでしょうか。これは彼女にとって決して簡単ではなかったのです。自分自身を否定することだったのでありましょう。けども彼女は主の偉大さ、素晴らしさを知るようになったからこれをささげることは当然だ、当たり前だ、もっともすばらしい特権だと彼女はわかったから、この態度を取ったのです。我々もハンナのように自分のサムエルを、自分のもっとも大切にしているものを主にささげるのでありましょうか。もしささげることができるなら、礼拝とは何かというその意味を知るようになるのであります。

 信仰の父と呼ばれた、あるいは神の友と呼ばれたアブラハムについても同じことが言えるのです。彼はまことの礼拝者でした。彼はいろいろな犠牲を払うようになったのです。三つのこと言えるかも知れません。彼は肉的にはハガルとイシュマエルと別れなければならなかったのです。これも面白くない経験だったでしょう。第二番目は彼はたましいがロトとソドムより分離しなければならなかったのです。これも辛い経験だったでありましょう。そして霊的には彼は愛するひとり子イサクに別れなければいけなかったのです。創世記の22章でしたか、読みましょうか。創世記の22章2節だけちょっとお読み致します。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

そしてアブラハムは若い者たちにあなたがたはろばと一緒にここにいなさい、私と子どもはあすこに行き礼拝をしてあなたがたのところにもどってっくると言ったのです。

 アブラハムは神のことばを聞いた時、びっくりしたのではないかと思うんですね。「あなたの子、あなたの愛している子、ひとり子イサクをわたしにささげなさい」このことばに対してアブラハムは「神よ、どうして、なぜイサクを殺さなければならないのか、もしイサクが死んだらあなたの約束は反故になり、何の価値もなくなるのではないか」と言ってつぶやくことを断じてしなかったのです。どうしてでしょうか。彼は神の道に己のすべてをささぐることによってのみ、まことの神を礼拝することができるのだと知っていたからです。だから彼はその若者たちに「礼拝」ということばを使ったのですね。「ここに残りなさい。私と子どもとはあすこに行き、礼拝をしてあなたがたのところに戻って来る」と言ったんです。

 彼は「私はモリヤの山に我が愛する我が子イサクを連れて行き、そこで彼をいけにえにささげるために行く」と言わなかったのです。「礼拝する」と言ったんです。なぜかと言ってささげることは、もっとも愛するものをささげることは取りも直さず「礼拝」を意味しているからです。すべてを主にささげることがまことの礼拝です。犠牲のあるところには必ず祭壇が築かれます。祭壇のあるところには必ず礼拝があります。このことを静かに思い巡らすならば我々にとって、イエス様の十字架が日々、毎日どれだけ大切なものであるかが深く知らされるのではないでしょうか。ほんとうに礼拝の問題は毎日毎日の生活のさなかに起こるのです。もし私は今これをやると神が満足しておられるのでありましょうか。あるいは悪魔が喜ぶなのでありましょうか。もし私はこの問題を解決しなければ、神に栄光があるのでしょうか。それとも悪魔は勝利を得るのでありましょうか。

 もし、信者は一致しなければどうでしょうか。悪魔はこれによって勝利を得るなのでしょうか。もちろん、そうです。あなたは、たとえば一致しない信者は一致するようにと努力しなければいけません。そしてこの二人は一つになると、これこそが礼拝なのです。そうしたら、初めて生けるまことの神がすべてのものにあってすべてとなられるのであります。礼拝は主なる神があなたにあってすべてとなられることなんです。ですから、毎日の生活のいろいろな小さな事柄が全部一番大切なことに、すなわち神に対する礼拝に、かかっています。あなたの礼拝の中心は生けるまことの神なのでしょうか。

 全体の要点は真に主の足もとにひれ伏した生涯にあります。主が私たちの心のうちにどれほどの余地を持っているかが問題です。主が私たちのためにいかほどの価値があるのでありましょうか。主が私たちにとって真に尊い方であれば、あまりに良いというものはひとつもない。あまりに高いというものもひとつもありません。私たちのあらゆるものはそれにもっとも深く、もっともすばらしくっても主に対してささげます。イエス様はかつてペテロにあなたはわたしを愛するかと聞いたのであります。もし私たちはこのイエス様の質問に対して「はい、あなたを愛します」と真心から言うことができれば、ほんとうにすばらしいと思うのです。

 一つの実例はベタニヤに住んだマリヤではないかと思うのです。マリヤという人はほんとうに真心からイエス様を愛した人だったんです。だから彼女はまことの礼拝者でした。彼女は非常に価の高いナルドの匂い油を主に降り注ぐことにより実に高い聖い主に対する愛を示してくださったんです。彼女の取る態度によってベタニヤというところは主に対する愛が満ちあふれていたところになったのです。そして福音書にナルドの匂い油の匂いが家全体に満ちたと書いてありますが、それと同じように愛の雰囲気がこのベタニヤの家を包んでいたのです。

 結果として多くの人々はそのあとでイエス様のみもとに導かれるようになり、救われたのです。その時非常にたいせつだったのはマリヤの態度を取ることによって主は大いに喜んだのです。満足してくださったのです。主に対するこのようなマリヤの愛は主が何にもまして主が求めておられるところのものです。イエス様は私たちが心からすべてをささげ主を愛しているかどうかを見ておられます。ほんとうに私たちは主だけを見て愛しているのでありましょうか。あるいは世のものも目に入り主にすべてをささげることをしないでいるのでありましょうか。マリヤはイエス様を分裂のない真実な愛をもって愛しました。だから彼女も御心にかなう礼拝者となったのであります。我々の人生の特徴は礼拝そのものであるならば本当に幸いだと思います。それによってまわりの人々も飢え渇きを持つようになり、導かれるようになり、主こそがすべての栄光と誉れを受けるようになるのです。

(引用者註:今回この聞き書きをしていて、この[下]に至って意外なことに気づかされた。それはマリヤがいかに主を愛していたかという末尾の話に関連することだ。私は集会に移る前に教会で20年過ごした。その時の祈りは「恵み深い天の父なる神様」という呼びかけで始まっていた。ところが集会に移ったらベック兄はいつも「愛するイエス様」と祈られる。皆さんもそのように祈られる。最初奇異に感じて、「愛するイエス様」と呼びかけるのに中々慣れなかった。あれから27年が経過するが、今もこの呼びかけを考え、考えする時がある。しかし、この[下]の話を聞いていて「愛するイエス様」とはまさしく礼拝の心だと何となくわかったように思ったからである。その結果ナルドの匂い油が家全体に満ちたとベック兄は言われる。そうありたいものだ。[GB155]。今日もスパークス氏の1月5日分を『根を張り広げよう』と題して訳し掲載した。なお24日の分は2011.1.24『主に仕えるとは?モーセの場合』をご参照いただきたい。いずれもhttp://stryasheep.blogspot.jp/のサイトである。)

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