2017年1月23日月曜日

礼拝とは何か(中)

 私たちはただ救われるために救われたのではありません。我々によって主なる神が礼拝の中心になるように。これこそが我々の生活の使命です。礼拝は主があなたにあってすべてとなられることです。他のことばで言いますならば、礼拝とはいったい何なのでありましょうか。すべてのことを主のみこころのままにおゆだねすることです。主の道に己をゆだねることです。主のなしたもうこと、主の導きは主の導きです。主はご自身のなしたもうこと、またご自身の導き、契機によって、私たちが主に目を開き、そしてその結果私たちが自発的に心から主を礼拝せざるを得なくなるように主は導いてくださるのです。

 主の道を知り、主の道を喜ぶ、それが私たちの一番大切な課題ではないでしょうか。そうなったら、私たちはなぜか、どうしてかと主に言うことができなくなります。なぜでしょうと言う人は主を見上げない人であり、したがってまことの礼拝をなさない人、また主の道を歩み得ない人と言わなければならないのです。我々はよく主よみこころをこのようにしてください、このように重荷を私から取り去ってください、主よ、この環境を変えて下さいと祈るのです。これはもちろん「祈り」であり、「礼拝」ではありません。「祈り」は我々の願いの言い表わしであり、「礼拝」とは己のすべてを何もかもを主におゆだねすることです。

 ダビデという人はよく聖書の中で、みこころにかなう人と呼ばれています。どうしてでしょうか。彼は決して完全で(あったわけではありません。)礼拝する者であったことを良く知ることができます。彼は最も深いどん底の苦しみにあっても、また非常な絶望に陥っている時も、逃れ道がなく前途が真っ暗な時にも、ひたすら神を礼拝する礼拝者だったんです。もちろん彼も経験したのです。すなわち神の道はいつも我々の願いとは同じとは限らないということだったんです。

 彼は神の御心にかなった人だったんですけど、彼は何と言われたかと言いますと「あなたの子どもは死ぬ。必ず死ぬ。」 と書いてあります。もちろん彼は自分の子どもを愛したでしょう。だから祈るようになったんです。彼は断食するようになり、ほんとうに真心からひたすらに祈りました。けど彼の子どもは神の言われた通りに死にました。

 多くの人はこのようなことを経験すると、どうしてでしょうか、なぜかと言うのではないかと思うのですけども、ダビデについて聖書は何と言っているかと言いますと、「彼は衣を着替えて主の家に行って礼拝した」と書いてあります。これだけを見てもわかりますね。礼拝は主の道に全く心から賛意を表することです。すべてを主のみこころにゆだねることです。彼は主の導きをもちろん全然理解することができなかったんですけども、礼拝することによって解放されたのです。

 旧約聖書の中で一人の主だった人間はヨブではないかと思うんですね。ちょっとヨブ記見てみましょうか。このヨブと言う人は、主の目から見ると当時の一番すぐれた人格者でした。神によって大いに愛された人だったんです。けども彼は非常に苦しむようになったのです。すなわち二三週間以内だったでしょう。それまで持っていた財産を全部が取り去られてしまったんです。自分の10人の子どもも全部死にました。いわゆる友だちも結局彼の敵になってしまったんです。訴える者となりました。彼は重病人となり、彼の助け手であるべき奥さんは「神をのろいなさい、死ね、結局自殺しなさい」と。私たちは彼の苦しみ、悩みを理解できないと思います。

 けどもその時彼はどういう態度を取ったのでありましょうか。1章の20節からお読み致します。
このとき(結局このような考えられない苦しいときを経験した時)、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し(たと書いてあります。つぶやいたと書いてありません、あきらめたのではありません。彼は礼拝し)そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

と、書いてあります。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」とこういうふうにヨブは主を礼拝したのです。

 私たちは主の道に従うことを確かに学ばなければなりませんけど、これはただ礼拝によってのみ出来得る事柄です。ダビデは主を礼拝する者だったんです。ヨブもそうだったんです。もちろん二人は同じ者ではなかったんですね。ダビデはひどい罪を犯してしまったんです。けどもヨブは主の前に全き人だったと書いていますね。もちろん、主の恵みによってそうなったんですね。自分の努力の結果ではありませんでした。けどもはっきり二人ともは礼拝したのです。どうしてであるかと言いますと、己を捨ててすべてを主のみ心にゆだねたからです。なぜだろう、どうしてでしょうと訊ねられても答えることがない。なぜか全然理解できなくてもただただ主を心からほめたたえ礼拝することです。
主よ、あなたは完全です。
全きことをなさるお方です。
私はあなたを心からあがめたてまつる。

この態度を取る人は主の望んでおられるまことの礼拝者です。

 礼拝とは何でしょうか。今述べましたようにすべてのことを主のみこころのままにおゆだねすることです。主の道に己をゆだねることです。第二番目は礼拝とは主のみもとに「ひれ伏す」ことです。ヨシュア記の5章の13節、14節に、次のように書き記されています。
さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」

と。この箇所を見ると礼拝とは主のみもとにひれ伏すことであるとわかることができるのです。この時ヨシュアは神の民イスラエルをカナンの地、約束の地へ導き入れるという大きな使命を持っていたのです。このことはモーセが長年かかっても成し遂げることのできなかったわざでした。だから、若いヨシュアにとっては非常に困難な出来事、非常に重い重荷だったにちがいない。これから攻めようとするカナンには恐るべき強敵でありカナン人が待ち構えています。また率いているイスラエルの人たちは始末におえない不平ばっかり言っている人たちだったんです。ヨシュアにとってはまさに外患内憂と言った苦しみだったんです。けどその時、主があらわれたのです。この主の軍の将とは間違いなく主イエス様だったんです。神が自分自身を明らかにする時、いつも主イエス様を通してです。主は自分自身を明らかにしてくださったとき、ヨシュアは地にひれ伏して拝した、礼拝した、と書いてあります。

 たとえ私たちのまわりに強敵がひしめき、私たちには耐えられない苦しみが襲いかかり、また試みがやってきたとしても、そのときこれがために主に助けを叫び求めることは大切ではありません。その時必要なのは、なさねばならない唯一のことは主のみもとにひれ伏し主を礼拝することです。もし私たちが主のみもとにひれ伏し礼拝するならば、私たちの問題は解決されます。主が面倒を見ていてくださるからです。礼拝とは主のみもとにひれ伏すことです。礼拝者は重荷から解放されます。喜びに満たされます。

(引用者註:絶対絶命の窮地に陥った時、人は「神様!」と呼ばわる。しかし、それは助けを求めることではあっても「礼拝」ではないと言われている。そして礼拝こそ弱り切っていた人間に喜びを心の底から与えるものだと語られている。じっくり味わいたいメッセージだ。明日の結論はどのように閉じられるのであろうか。GB[154]。スパークスの今日の分はやはり2011年1月23日『主がくださるいのち』と題して訳してあります。ために今日は未定稿であった1月4日の分を『地だけではなく天をも揺り動かす』と題し新たに訳し掲載しました。こちらhttp://stryasheep.blogspot.jp/の方もどうぞお読みください。)

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