2017年1月15日日曜日

救われることとは簡単ですね

主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。(ローマ10:13)

『主なる神によって愛されている日本人とドイツ人』(下)

 今までちょっとドイツ人と日本人が多くの点で似ているということを見て来ました。それだけでなく、似ていない点もちょっと考えました。最後に簡単に次のようなことを申し上げたいのです。人間の心というものは世界中どこでも全く同じです。つまりイエス・キリストを体験的に知るまで本当の満足はありません。ただイエス様に出会って、イエス様に従う者だけが永遠の幸せ、本当の満足、満たされた人生を体験できるのです。ドイツで一つのアンケートがなされました。俳優、指揮者、作家、出版者、大学教授と言ったような人々が集められたのですが、その問いというのは「歴史上の人物でもし会えるならば、一番会いたいと思う人は誰か」という質問でした。九十何%はイエス・キリストと書いたのです。特別な大会のためにどのような題が一番望まれるかという問いが別の時に路上で問われました。すると、その答えは「失敗した人物に対して逃れ道があるか」という問いが一番多く望まれました。何が我々の人生に意味と内容を与えるのでありましょうか。

 現代人は確かに近代的かも知れないが、一番深い心の奥底では満たされていません。現代人は本当の意味で頼るべきものがないのです。ある自動車のうしろの窓に一枚の次のような文章の書かれた紙切れが貼ってありました。「どうか私について来ないで下さい、私は道に迷っています。」いつからですか知りませんが、 このことばは大部分の人について言われなければならないのではないでしょうか。多くの人は望むものを何でも持っているのに満たされていない。何でも持っているけど、そこには喜びも平和も安全もありません。つまり不満足の感情がそこにあるのです。きっと別の人生があるに違いない。人生とはこんなに空しいものであるはずがない。そう思って多くの人は真理や本当の救いを求めています。求めていない人はいないと思います。自分で気がついていないかも知らないけど満たされていない人は悩んでいます。悩んでいる人は求めています。何を求めるべきかわからない。だから迷うのです。もちろん、普通の人は宗教と関係を持ちたくない。

 この間、大分県の別府へ行ってひとりの人は今までずうーっと逃げてしまったのです。続いて逃げようと思ったのですね。何と言われたかと言いますと「私は束縛されたくない」「ほー、あなたの考えはすばらしい」と言ったとき、びっくりしたのです。「結局、宗教によって縛られるでしょうし、聖書読んでも自由にならないでしょうし、縛られたくない。あなたの考え方は正しい、イエス様も同じ気持ちだからです。だから、イエス様は『わたしはあなたがたを自由にする』もし、宗教によって教会によって束縛されれば間違っている。」「ほー、そうか」と言ったのですね。二番目は何と言ったかと言いますと「私は他の勉強することいっぱいあるから」と言ったのです。結局救いを得るために勉強しなくちゃいけないと思ったのです。決してそうではない。学校の勉強は十分でしょう。救われるためにまた勉強しなくちゃいけないということだったらちょっと可哀想なのではないでしょうか。

 一週間前に東大の数学の教授を訪ねたのです。肝臓癌なのです。奥さんは20年間どこかの教会へ行ったんですけど、もう彼は見向きもしなかったのです。けども、もう癌になってちょっと訪ねたんです。初めてだったんですけど、彼は非常に正直な立派な人格者でした。「あなたもやっぱり自分の人生を振り返ってみると過ちもあったでしょう、わがままあったでしょう」「もちろん、その通りです」「実はやっぱり自分のわがままは赦されているとわからなければ、大変なことになる。ね、そうでしょう。神の要求しているのは頭を下げることだけです。あなたは、『あわれんでください』『赦してください』という態度を取るとあなたのわがままは赦されるし、あなたは、神によって受け入れられるようになりますし、生ける希望を持つようになる。」と言って、彼は頷いただけでなく一緒に祈ったのです。最後の挨拶の時、彼は何と言ったかと言いますと「救われることとは簡単ですね」

 奥さんの話によると彼はその時から、重荷から、死を恐れる恐れから解放されたのです。そのあとで奥様は初めて勇気をもって「実はあなたの考えているより、ずっと危ない。あなたは毎日いつ死んでもおかしくない。」彼は答えて「ああ、そうか。けどイエス様を信じましたから、全部イエス様に任せます。信頼します。」という態度を取ったのです。まことの救いとはそれです。彼は一回も教会へ行ったことがない。けども、頭を下げることによって、彼は赦された、愛されている、心配されている、神の御手の中に守られていると確信することができたのです。

 うちの娘、20歳で結局天に召されました。葬儀のあとで彼女の聖書ちょっと見て、妹だったんですけど、彼女の妹は彼女の聖書どうしても欲しいと言って、もちろん上げたのですけど、あの聖書の中で小ちゃい紙切れが入っていました。誰ももちろん読んだことがないんですけど、彼女はそれをいつ書いたか分からないけど、我々は親としてそれは彼女の遺言だと思ったんです。本の中にも書いているんですけど、次のような祈りだったんです。

主イエスさま。たとえ肉眼であなたを見ていないにしても、
私は心からあなたを愛しています。
そして、たとえ個人的にあなたを見ていないとしても、
私はあなたに全き信頼をおきます。
この目であなたを見ることが許される時、なんとすばらしい、
言葉にならない喜びで、歓呼の声をあげるでしょう。
その時、私は永遠に安全な場所におかれます。
あなたはよみがえりであり、いのちです。
あなたを信じる者は死んでも生きるのです。
そして、生きているあなたを信じるものは、だれでも永遠に死ぬことはありません。
神のたまものは、私たちの主イエス・キリストとの交わりにおける永遠のいのちです。
私はまだ、この肉の体にとどまる限り、本当のふるさとに到達していません。
私はまだ、主から離れている旅人のような状態におかれています。
私は主と顔と顔とを合わせていませんが、信仰によって歩み続けています。
しかし、私は安らかです。
願わくば、この肉の体を去って私の天のふるさとへ行き、主のみもとに行きたいと思います。
ですから私は、主が来られるまで、主に喜ばれるように、
すべてのことを一生懸命にやりたいと思います。
私のふるさとと、私の目標は、天にあります。

 娘はこういうふうに書いただけではなく、百%そう思ったのであり、だから毎日喜ぶことができ安心して将来に向かうことができ、希望をもって死に向かうことができたのです。

 最後に一日の経験したことちょっと話したいと思うんですね。まあ、ある朝電話があったんです。本当は僕空いている日はないんですね。年中一回もないけど、いつももうあっちこっち歩かなくちゃいけないし、北海道から沖縄まで、東京に住んでいるけど、東京にいるのは滅多にない、今年になってから三回しかいなかったけど、そういう生活をしています。ある朝一人のお母さん電話してきたんです。「ちょっと娘は聞きたいことがある」「いやー何ですか」「いやー娘の葬式やるかどうか」「へーっ、娘は元気ですか?」「うん、娘は元気ですけど今日自殺するつもりなんです」って、「あなた葬儀をやるかどうか」「いやーちょっと電話で言えないよ、集会やめて伺います。」それから三時間電車を乗って、娘は何か気がついたらしいけど、もちろん僕会ったことがないし、そして自分の部屋に逃げて閉じこもって、蒲団の中に隠れちゃったのですね。お母さんと一緒に部屋に入って行ったんだけど、顔を見せようとしなかったし、彼女は蒲団の下から叫んだんです「あなた帰れ、呼んでいないだろう、私は死んだ人間です、生きる人のために頑張りなさい」へーっ、困っちゃったんですけどね、10分くらいしゃべって・・・

引用者註:残念ながら最後まで録音されていなかったのか、途中で終わっている。このお嬢さんがどうなったのかわからないが、先述の東大教授やベックさんの娘リンデさんと同じく、死の恐れから解放されて、そのような状態から救い出されたのではないでしょうか。ただ、端なくも1991年当時のベック兄の生活の一端がご本人の口を通して語られている。Godhold Beck (146))

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