2017年1月7日土曜日

宝物はすでに鋳造されています

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(2コリント8:9)

 そうです。主の貧しさによって、キリストの考えられない富があなたのものとされているのです。七重の富が数えられます。そしてこれらは鋳造されない宝物とか封印された積立金では全然なく、すでに私たちが使えるようにと鋳造され、ご自身の似姿と上書きとで証印を捺され、信仰を持つ手の中にふんだんに注がれるのです。

 目録を見るだけでも素晴らしいです。「豊かな慈愛(ローマ2:4)」「忍耐と寛容」「知恵と知識の富(ローマ11:33)」「あわれみの富(ローマ9:23)」「すぐれて豊かな御恵み(エペソ2:7)」「栄光の富(コロサイ1:27)」その上、主ご自身のおことばがおっしゃいます。「すべてあなたがたのものです(1コリント3:22)」と。

 信仰によって一瞥し、最強の想像の範囲にまさり、とこしえに延々と流れ込むことを思い、栄光ある主の富のすべてや主の栄光の富があなたのために今もあり将来もあることを悟りなさい。それでもあなたは錆びで崩れるこの世の物を自分のために取って置きたいのでしょうか。 (In view of this, shall we care to reserve anything that rust doth corrupt for ourselves?)
 
おお 何という輝きを 神様は 主の宝物の啓示に 与えてくださったことか
恵みと栄光の貴重なもの 天と地の貴重なもの
聖霊は 今や あなたの力ある黄金の鍵で それらを 開けられる
御国の すばらしい宝石を 今や ほれぼれと 見させてくださる 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-7-treasures-already-coined/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97171です。最後の英文がうまく訳せていません。ちょっと意味不明の日本語ですね。と、書きましたところ、早速M氏から適切な訳をいただきましたので、そのように直しました。

※Godhold Beck(138)

『聖書とは何か』第五部[7]

 これから、ちょっとヘブル書の著者について考えてみましょう。ヘブル書は使徒たちが旧約聖書の完全な神の霊感を認めたことを証明するものです。旧約聖書の一つ一つのみことばは主なる神から与えられたものであり、永遠の息を持ち、ヘブル書におけるみことばの土台となっています。ちょっと二三ヵ所お読み致します。ヘブル書1章5節から
神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、

8節
御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。

13節
神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」

と。2章8節
万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

3章7節
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

4章2節
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

6章13節
神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」

7章1節
このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。

17節
この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」

と。8章8節から
しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」

10章5節
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。

12章26節
あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」

と、あります。旧約聖書の引用ばっかりです。

 実際、神は預言者たちをとおしてお語りになりました。私たちはしっかりとした預言のみことばを持っています。ヘブル書は旧約聖書の一つ一つのみことばに対して一つ一つ肯定している書として際立っています。聖書、すなわち旧約聖書の完全な霊感を否定してヘブル書を信頼できる神のみことばとして確信することはできません。それは論理的にも道徳的にも不可能なことです。万が一そんなことが可能だとするならば、私たちは長い間、偽りとしてきたものを真理というようなおかしなことをすることになるでしょう。ヘブル書の著者は旧約聖書に基づいて多くの叙述をしているのであり、その一つ一つのみことばは巌のように確かな土台となっているのです。 

 ヘブル書11章は旧約聖書の歴史的な出来事が神の霊感によるものであることを私たちに告げています。旧約聖書と新約聖書の統一的な証しは神がお語りになったということです。

引用者註: 今日の箇所もまた無限とも思われる旧約聖書の引用がなされています。思わずベック兄も『旧約聖書の引用ばっかりです』と苦笑いとも取れる笑い声をふくむ音声が録音されています。それだけでなく、随所で録音がストップし、そのたびにドアの開け閉めの音が微かですが、聞こえて来ます。ベック兄の懐かしい書斎の姿が思い浮かべられます。) 

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