2歴代誌31:21で、私たちはヒゼキヤが始めたすべてのわざにおいて彼が心を尽くし目的をはたしたことを読みます。万事輝き活気があるのは単にはるかに楽しいことであるだけでなく、実際に主ご自身のみことばに書かれている神の命令の一つであります。私はこれは人によってより容易であることを知っています。恐らくあなたにとっては心からすべてのことをなすのは自然にできるでしょう。しかし、そのことすら十分ではないのです。他に何が必要なのでしょうか。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい(コロサイ3:23)。」とある通りです。
主はあなたが主を喜ばすことを求めているのか、それともすっかり主が忘れられていて、他の人々の賞賛だけを考えているかどうかをご存知であります。けれども、恐らくあなたが心からそのことをなすのは難しいでしょう。
時間をかけ、それゆえぐずぐずして、だらだらしたやり方で、特にやりたくないことをなすのをより好むのです。これは正しいでしょうか。あなたがなすことはどんなことでも、心をこめてやりなさい。他のどんな命令を破るよりも神様に従わないのは正しくないですか。主の御前でやましくないですか。多分あなたはこんなふうには決して思わなかったでしょうが、みことばはそうは言っていないので、あなたも私もそれらを変えることはできません。願わくは、この主のおことばに従えるように力をいただきましょう。その時にヒゼキヤに関する最後のことばは私たちにも真実になりましょう。すなわち、私たちは「目的を果たす」のです。
イエス様 主よ
あなたは お用いになられるのですか
何よりも あなたのものである 人を
あなたが してくださいますように
私は 選びたくありません
ただ 私に あなたの声を 聞かせてください
イエス様 いつも
あなたに お仕えして
喜んで 自由でいられるように してください
あなたは お用いになられるのですか
何よりも あなたのものである 人を
あなたが してくださいますように
私は 選びたくありません
ただ 私に あなたの声を 聞かせてください
イエス様 いつも
あなたに お仕えして
喜んで 自由でいられるように してください
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-3-is-your-heart-in-it/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97167です。今日の詩の訳も好い加減である。読者の指導をお願いしたい。
※Godhold Beck(134)
『聖書とは何か』第五部[3]
そして、第三番目はイエス様は旧約聖書においてお語りになられたお方でした。主イエスご自身は初めからあったことばそのものでした。ヨハネ伝1章1節に
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
と、書いてあります。預言者たちの中で語られた霊は主イエス様の霊だったのです。ペテロ第一の手紙1章10節に
この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
と、あります。また、ヘブル書2章11節からお読み致します。
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
主イエスは旧約聖書全体は神の霊感によって書かれた神のみことばそのものであることを証明しておられたのです。
今まで私たちは三つの点について考えて参りました。すなわち第一番目は人間となった神のみことばとしてのイエス・キリスト、第二番目は文字となった神のみことばとしての聖書、そして第三番目は旧約聖書についてのイエス・キリストの証しだったのであります。
今から第四番目の点、すなわち旧約聖書に関する使徒たちの証しについて考えてみたいと思います。主に、マタイ、ヨハネ、ペテロ、パウロとヘブル書の著者について考えてみたいと思います。使徒たちは自分たちの主に忠実に従いました。主イエスが高められたお方として、使徒たちに遣わしてくださった聖霊は使徒たちにすべてのことを教え、またすべてのことを思い起こさせました。聖霊の導きのもとに使徒たちは聖書を学び、聖霊の権威に基づいて聖書を用いて引用しました。私たちは聖霊が主イエス様と全く同じように教えて下さることを見ることができます。すなわち、イエス様の宣べ伝えた福音の真理は同時にすべての使徒たちが宣べ伝えた福音の真理でもありました。一言で言いますと、主イエス様と全く同じように使徒たちも旧約聖書の霊感を信じ確信しました。
先ず、マタイについて考えてみたいと思いますが、マタイは旧約聖書を引用し、用いる名人です。かつて取税人だったマタイは何とよく旧約聖書に精通し、そしてまた何と適当なみことばをふさわしい時に引用し、用いることを知っていることでしょうか。マタイは再三再四、旧約聖書と新約聖書の密接な関係を示し、そのみことばの一つ一つはいかにしてイエス・キリストにおいて成就されたかを私たちに証明しています。マタイの福音書の中には「書かれたことが成就されるために」という表現が何度も出てきます。マタイ伝1章22節に
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
と、あります。生まれた時から死に至るまで、そして復活に至るまで、イエス様のことをマタイは証明しています。みことばが成就するためにこれらのことは起こらなければならなかったのです。
ドイツの神学によるとイザヤ書の作者は一人ではなく二人だったと言うのですが、マタイはそれをはっきりと否定することを語っており、イザヤ書42章についてもはっきりと証言する意味を持つことばを語っています。すなわち、イザヤ書42章はドイツの神学によると、1章から40章までがイザヤの書いたもの、そして41章から66章までは別の人が書いたことになるのですが、そうだとしますとこの42章はイザヤではない、別の人が書いたことになってしまいます。しかし、マタイの書いたものによるとイザヤ書42章はイザヤ自身が書いたことになります。マタイ伝12章17節18節に
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
と、あります。
引用者註: 鴎外に『かのように』という短編がある。これは主人公がベルリンに留学してドイツ新神学の影響を受けて帰ってくるという筋立てのように私は読んだ記憶がある。留学前も留学後も小説全篇には暗い雰囲気が満ちている。創作とは言え、鴎外のドイツ留学の一つの結果かもしれない。今日のベック兄によるドイツ神学批判はマタイの福音書の記述を通して具体的である。いのちはこうして信ずる者に満ち満ちて行く。ドイツ人であるベック兄をとおして福音の土台のしっかりした聖書読みが教えられる私たちは幸せである。そこには「暗さ」から解放された生きる希望があるからである。)
※Godhold Beck(134)
『聖書とは何か』第五部[3]
そして、第三番目はイエス様は旧約聖書においてお語りになられたお方でした。主イエスご自身は初めからあったことばそのものでした。ヨハネ伝1章1節に
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
と、書いてあります。預言者たちの中で語られた霊は主イエス様の霊だったのです。ペテロ第一の手紙1章10節に
この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
と、あります。また、ヘブル書2章11節からお読み致します。
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
主イエスは旧約聖書全体は神の霊感によって書かれた神のみことばそのものであることを証明しておられたのです。
今まで私たちは三つの点について考えて参りました。すなわち第一番目は人間となった神のみことばとしてのイエス・キリスト、第二番目は文字となった神のみことばとしての聖書、そして第三番目は旧約聖書についてのイエス・キリストの証しだったのであります。
今から第四番目の点、すなわち旧約聖書に関する使徒たちの証しについて考えてみたいと思います。主に、マタイ、ヨハネ、ペテロ、パウロとヘブル書の著者について考えてみたいと思います。使徒たちは自分たちの主に忠実に従いました。主イエスが高められたお方として、使徒たちに遣わしてくださった聖霊は使徒たちにすべてのことを教え、またすべてのことを思い起こさせました。聖霊の導きのもとに使徒たちは聖書を学び、聖霊の権威に基づいて聖書を用いて引用しました。私たちは聖霊が主イエス様と全く同じように教えて下さることを見ることができます。すなわち、イエス様の宣べ伝えた福音の真理は同時にすべての使徒たちが宣べ伝えた福音の真理でもありました。一言で言いますと、主イエス様と全く同じように使徒たちも旧約聖書の霊感を信じ確信しました。
先ず、マタイについて考えてみたいと思いますが、マタイは旧約聖書を引用し、用いる名人です。かつて取税人だったマタイは何とよく旧約聖書に精通し、そしてまた何と適当なみことばをふさわしい時に引用し、用いることを知っていることでしょうか。マタイは再三再四、旧約聖書と新約聖書の密接な関係を示し、そのみことばの一つ一つはいかにしてイエス・キリストにおいて成就されたかを私たちに証明しています。マタイの福音書の中には「書かれたことが成就されるために」という表現が何度も出てきます。マタイ伝1章22節に
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
と、あります。生まれた時から死に至るまで、そして復活に至るまで、イエス様のことをマタイは証明しています。みことばが成就するためにこれらのことは起こらなければならなかったのです。
ドイツの神学によるとイザヤ書の作者は一人ではなく二人だったと言うのですが、マタイはそれをはっきりと否定することを語っており、イザヤ書42章についてもはっきりと証言する意味を持つことばを語っています。すなわち、イザヤ書42章はドイツの神学によると、1章から40章までがイザヤの書いたもの、そして41章から66章までは別の人が書いたことになるのですが、そうだとしますとこの42章はイザヤではない、別の人が書いたことになってしまいます。しかし、マタイの書いたものによるとイザヤ書42章はイザヤ自身が書いたことになります。マタイ伝12章17節18節に
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
と、あります。
引用者註: 鴎外に『かのように』という短編がある。これは主人公がベルリンに留学してドイツ新神学の影響を受けて帰ってくるという筋立てのように私は読んだ記憶がある。留学前も留学後も小説全篇には暗い雰囲気が満ちている。創作とは言え、鴎外のドイツ留学の一つの結果かもしれない。今日のベック兄によるドイツ神学批判はマタイの福音書の記述を通して具体的である。いのちはこうして信ずる者に満ち満ちて行く。ドイツ人であるベック兄をとおして福音の土台のしっかりした聖書読みが教えられる私たちは幸せである。そこには「暗さ」から解放された生きる希望があるからである。)
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