2017年1月18日水曜日

宗教の空しさ(下)

イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。(ヨハネ19:30)

その節が終わると、すぐ彼は言いました。これで安心しました。「今、私は平安のうちに死ぬことができます」この若者はその時、その場所で主イエス様のところに行きました。彼はどうすることもできなかったにもかかわらず、ありのままの状態で主のみもとに行き、主はこの人を救って下さいました。

 あなたもまた同じように主のみもとに行って下さい。そうすれば主は必ずあなたを救って下さいます。イエス様はあなたをご自身のみもとに招いておられます。「わたしのところに来なさい」と主は言っておられます。「教会行きなさい」とか「お寺に行きなさい」とか「宗教的でありなさい」とかということは、一言も言っておられません。ただ「わたしのところに来なさい」と主はおっしゃるのです。すなわち、聖なるお方、造り主、祝福された神の御子、カルバリの十字架で死んでくださったお方のところに行って下さい。そうすれば、あなたはとこしえに、主とともに永遠の栄光のうちにいることができるのです。

 あなたのすべての宗教的な習慣は宗教による奴隷状態以外の何物でもありません。それは悪魔の偽りと欺きです。そして、あなたの罪は大変な重荷です。その時どうかイエス様のみもとに行って下さい。そうすれば主はあなたを休ませて下さいます。イエス様はあなたをも完全に救うことがおできになります。なぜなら、イエス様はあなたのために尊い血潮を流すことによってあなたのために救いの御業を完成して下さったからです。

 十字架の上での主のことば、すなわち「完了した」ということばは本当にすばらしい「福音」であります。「完了した。」そうです。罪の問題は解決しました。そしてイエス様は栄光に満ちて御国へ上られました。これこそすべてがなされたことの証明です。あなたはそのままの状態で主のみもとに行って下さい。あなたがどこにいようと、誰でいようと、主の声を聞き、それに従って下さい。いわゆるキリスト教を学ぶことではなく、キリストのみもとに行くことこそ大切です。それ以外の場合にあなたは永遠に失われるでしょう。ルカ伝19章10節に
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

と、書いてあります。

 前に言いましたように、サウロと言う、あとのパウロは宗教を持っていましたが、彼は失われていたんです。けども神の恵みによって、彼は空しい宗教から救い主を見出す者になり、次のように証しています。ピリピ書3章4節から読んで終わりたいと思います。
ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

このように真心から言える人は本当に幸いと思います。

(引用者註:自らの罪の前に、いかなる人間のいかなる努力も通じない。ましてその問題を解決するかのようにふるまう宗教、特にイエスを主と仰がないでいつの間にか人間の組織と化してしまい形骸化したキリスト教に多くの人が惑わされている。十字架のイエス様の『完了した』ということばに心の衷心から感謝する者でありたい。まことにこれぞ『福音』である。人に出来ないことを主は成し遂げて下さるからだ。GH[149])

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