2017年1月21日土曜日

こんなにすばらしい救い(下)

 その老人は両目を閉じて、両手を重ねていました。私が助けを求めると、その老人は言いました。「私は仏陀、すなわち釈迦です。あなたも両目を閉じて両手を束ね、すべてのことを忘れ去り、全く静かに落ち着きなさい。そうすれば、誰もそしてどんなものもお前を動揺させることはできない。そうすれば、我が子よ、お前は私と同じように平安のうちにいるようになる。」と。「はい、お父さん、私はそうします。しかしこの穴から私を助けて下さい。」とその人は一生懸命叫びました。しかし、仏陀、釈迦もまた姿を消してしまいました。

 その男の人はますます深く穴の中に沈んで行きました。その時、彼は突然三番目の男の人を見ました。その人の顔には大きな苦しみと悩みの跡が刻み込まれ、その人の両手両足には刺し通された傷跡がありました。その時、泥沼に沈んでしまっていた人はただ一言だけ叫びました。「どうか私をあわれんでください。」するとこの三番目の人は深い穴の泥沼にいる彼のところにまで降りて来て、両手を彼に差し伸べ、穴から救い出して下さいました。その第三の人は穴から引き上げられた人に十分な食物を与え安らぎの場を提供し、そしておっしゃいました。「今からは私があなたとともにいてあなたを助けましょう」と。この解放者こそ主イエス様でした。

 「あなたは彼の名をイエスとつけなさい、この方こそご自分の民を罪から救って下さる方です。」このようにして悔い改めた仏教徒は自分がどのようにしてイエス様を経験し知るようになったかを述べました。

 イスラエルの王ダビデは同じことを経験できました。まず最初にサタンは彼を誘惑しました。ダビデは姦淫を犯し、その夫を殺させました。悪魔はこのようにして、ダビデが永久に役に立たない者となるだろうと期待しました。しかしダビデは主なる神の解放を経験しました。詩篇40篇の1節から5節までお読み致します。これこそがダビデ王の救いの経験をあらわすことばです。
私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。

と。まず悪魔は罪を大したものではないと思わせました。表面的には秘密に包まれているかのように見えても実際には大変な毒なんです。罪によって人間は精々移り行く快楽感を手に入れることはできますが、良心の呵責は残ります。まことの喜びは主イエス様だけがお与えになります。なぜでしょうか。まことの喜びの土台は罪の赦しであり、罪を赦すことがお出来になるのはイエス様だけ、イエス様お一人だけです。ガラテヤ5章22節23節に
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

とあります。

 初めに読みましたヘブル書2章3節をお読み致します。
こんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。

 なぜ、私たちは今日こうした交わり会を持っているのでしょうか。多くの人はじっくりと考えるようになるべきです。すなわち私のたましいの救いはどうなっているのでしょうか。いったい私は死んでから永遠の時をどこで過ごすのでしょうか。罪の救い主から遠く離れた地獄で過ごすのでしょうか。あるいは考えられないほどの栄光に包まれて主イエス様のもとで過ごすのでしょうか。

 あなたの失われた望みのない状態を知って下さい。ただひとり生けるまことの神だけが逃れ道をご存知であるということを知って下さい。単なる聖書の知識はあなたを救いに導かないということを知って下さい。あなたの立派な志も救うことができないということを知って下さい。神のみことばである聖書は、努力する人やがんばる人、聖書を研究する人や、いい人間になりたいと思う人が救われるのではなく、主イエス様を受け入れる人が神の子、つまり救われた者となると言っています。

 聖書の救いの福音は簡単に理解できます。ヨハネ伝3章6節に今日、
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

と、あります。ここでは信じる者と信じない者と言われています。その中間の道は提供されていません。主なる神は私たちに選択をさせますから、私たちはその責任を持っています。永遠のいのちがここに提供されます。私たちはどのような決断をするのでしょうか。次のように祈る者は幸いです。
主イエスよ、私は今失われた罪人としてあなたのみもとに行きます
あなたは私の身代わりとなって罰を受け殺されました
あなたの名前はイエスです
あなたはただひとり罪の救い主です
私はあなたを私の人生のなかに受け入れます
私はあなたの血潮が私の債務の赦しのために流されたことを
そしてあなたが私をも赦してくださったことを感謝します

と。彼の名前はイエスと名づけられました。というのは、主はあなたの罪をも赦したいと思っておられ、あなたに全く新しいいのちを送りたいと望んでおられます。提供された罪の赦しを受け取る人は幸いです。

(引用者註: 文中の詩篇40篇はかつて1990年の某日に引用者が妻と輪読している時、そのみことばの一字一句がすべてそのとおり自分のすべての状態に当てはまりただひたすら泣くのみであったことを思い出します。この心の琴線に触れたダビデの詩篇はまさしくダビデの悔い改めの詩であったことを今回新しく知らされました。罪の赦しが人間が永遠に生きるためには何としても必要です。スパークスの今日の箇所はhttp://stryasheep.blogspot.jp/の2011年1月21日の分として『イエス様、あなただけが中心となってください』と題してすでに掲載しています。そのため今日は未提稿である1月2日の分を『我が内におられるキリスト』という題名で掲載しました。興味のある方はそちらもご覧ください。GB[152])

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