2017年1月2日月曜日

目的のある苦難

あなたの手が私の上に激しく下って来ました。(詩篇38:2)

 あなたはかつて弦楽器の弦が技倆ある調律師のすぐれて繊細な手で、しかも固く押しつけられている様を見たことがないですか。調律師は音叉を決して変えないで、絶対的な和音をふるわせて、弦に完全に正しい音符を生み出すでしょう。実際的な手は鋭敏な耳と一体であり、その押えは抵抗に対してもっとも微妙な調整に耐えられるようにもたらされるのです。緊張が過度には決してなされず、決して弦は切られません。しかし、彼は何度も何度も音色が正しくなり、耳が満足し、筋肉がゆるみ押えがなくなるまで根気強く響きを確かめます。弦は非常に小さな音を生み出す小さな弱々しいものであるかもしれません。ところが、深い響きを一杯生み出すことのできる大きな低音のものとちょうど同じようにその場では求められているのです。

 調律師はちょうどそれと同じ苦労をし、弦自身の独自の音色を維持し絶対音に合わせ響く時満足します。その弦は自分で音を調整することはできませんでした。それをやりとげるどんな機械も今まで発明されませんでした。調律師の生きた手による確かで繊細な押えが音色をものにすることができるのです。あなたはあなたの調律師であるお方を信頼し、どんな圧迫があろうとも賛美の音色を始めたくはないですか。

おお 救い主様 痛みを押えてくださるのは 
あなたのやさしい手 とこしえに 釘あとに耐えられる手
そして 今やその影の下に あなたによって 隠されており
その苦難だけが 私に語りかけるのです
あなたは 私を 愛してくださると
 
'Tis Thy dear hand, O Savior, that presseth sore,
The hand that bears the nail-prints for evermore.
And now beneath its shadow, hidden by Thee,
The pressure only tells me, Thou lovest me!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-2-a-purposeful-pressure/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97166です。

※Godhold Beck(133)

『聖書とは何か』第五部[2]

 主イエス様が弟子たちに旧約聖書を解き明かされた時、弟子たちの心は燃えたと記されていますが、これは何というすばらしいことだったでしょう。イエス様は復活のあと弟子たちに出会われた時、彼らのためにたった一つの福音だけをお伝えになりました。すなわち、すべてのことは成就されなければならない、ということでした。ルカ伝24章44節と47節までをお読み致します。
さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

と、あります。

 主イエス様は弟子たちに彼らの信仰の比類なき土台、すなわちモーセ、預言者、詩篇をお残しになりました。主イエス様は旧約聖書の完全な霊感を信じておられなかったでしょうか。イエス様が旧約聖書の一語一語また一字一字をほんとうに神のことばとみなしておられたことは疑いの余地はありません。それはイエス様にとって揺るがざる確信でした。ヨハネ伝10章35節に
もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、

と、あります。
 それですから、私たちは旧約聖書に対するイエス様の位置づけを主ご自身の証によってまとめることができます。マタイ伝5章18節に
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。 

と。これこそイエス様の確信であり、主のみことばに私たちは全き信頼を置くことができます。マタイ伝24章35節に
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

と、イエス様は言われたのです。

 旧約聖書に対する主イエスの証しは何であったかをもう一度振り返って見ましょう。三つのことが言えます。第一番目は旧約聖書全体は神の霊感によって書かれたものであるとイエス様は証しておられます。もう一回読んでみましょうか。マタイ伝5章18節
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

ヨハネ伝10章35節
もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、

と、あります。

 第二番目はイエス様はご自分こそ、旧約聖書の預言の成就であるとおっしゃいました。みことばはイエス様にとって、霊の糧でした。旧約聖書はご自分の生活と死と復活について預言しているだけではなく、預言通りになるということをイエス様はご存知であり確信したのであります。イエス様は預言通りナザレに住んでおられました。マタイ伝2章23節に
そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。

と、あります。そして、イエス様はみことばをもってサタンと戦ったと、マタイ伝4章1節から10節に書き記されています。イエス様はご自分こそまことの救い主であることを証明するために、みことばを引用しました。マタイ伝11章の2節から5節までお読み致します。
さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。

と。そして、ルカ伝4章の17節から21節までお読み致します。
すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

と。ご自分の苦しみについて主イエスはみことばが成就されるためであることを確信しておられました。 マタイ伝26章54節に
だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。

と、あります。十字架上で主イエスの言われたことばは、主は詩篇のことばで祈られたことを私たちに示しています。たとえば、詩篇22篇1節
わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

16節
犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。

と、ありますし、詩篇31篇5節
私のたましいを御手にゆだねます。

と、あります。

引用者註:イエス様が聖書、旧約聖書に忠実であられたことは、私たちがもっともっと聖書全体に耳を傾ける必要を語っているのではないでしょうか。古い契約があっての、新しい契約があるのですが、古い契約を知らずして、どうして新しい契約のすばらしさが理解できるというのでしょうか。) 

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