2017年1月11日水曜日

あなたは神を偽り者としていないか

あなたのみことばは真理です。(ヨハネ17:17)
神を信じない者は神を偽り者とするのです。(1ヨハネ5:10)


『聖書とは何か』第六部[3]

 次に「信じなさい」という神の要求を見てみましょう。すなわち、神のみことばに対する「信仰」がここで要求されているのです。私たちは聖書による神の啓示、すなわち神のみことばは神のみことばであるという啓示が、根本的な事実であることを確証致しました。一つの事実は、私たちがそれを理解できなくても認めざるを得ません。主なる神は人間から「信仰」を要求しておられるのであり、私たちがまずすべてのことを理解して信ずるということを期待していらっしゃるのではありません。

 神の事実を体験するためにはただ一つの道、すなわち「信仰」の道だけが備わっています。救いに至る信仰とは、絶対者である主なる神を百%信頼することであり、神の権威を百%認めることです。この信仰はいかなる証拠も保証も証明も必要としません。私たちは主なる神は絶対者であるから信ずるのです。霊感の問題については理解したり証明したりしてから信じるというようなものではなく、ただ単純に信じることが大切です。もしも私たちは理性で神の知識を得ようとするならば、神は「否」という態度をお取りにならざるを得ません。信じる者は認識し、理解し、見るようになるのです。

 聖書は神の霊感によって書かれたものである、と聖書は事実として伝えていますから、私たちは正直になりたいと思うなら、この事実を信ぜざるを得ません。私たちは人間の理性に頼るのではなく、聖書は真理ですから、その真理を信ずるという態度、すなわち意志の問題が問われることになるのです。自分の理性で判断してから、安全な路線を行くことに慣れてしまっている人間にとって、神の要求は何と困難に思えることでしょうか。それはまさに今までの道とは逆行する正反対の道だからです。ヨハネ伝4章50節に
イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。

と、あります。

 私たちはイエス様がみことばに対して取られたと同じ態度を取るべきです。ヨハネ伝17章17節にイエス様は次のように言っています。
真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

弟子たちについて、聖書は次のように言っています。ヨハネ伝2章22節
それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

と、書いてあります。

 これこそ、預言者たちや使徒たちの証しを信じ、大いに用いられた人々の勝利の秘訣だったのです。彼らは旧約聖書と主イエスのお語りになったこと、すなわち旧約聖書と新約聖書を素直に信じました。

 すべての不信仰の源は、悪魔です。悪魔が人間に語った最初のことばは、神のみことばに対する疑いをふくんでいます。創世記3章1節に
さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 悪魔は神のみことばのうしろに最初の疑問符を置きます。そしてそれ以来、神のみことばのうしろにつけられる疑問符は、疑いもなく蛇である悪魔の足跡です。悪魔自身も神のみことばを信じます。というのは、悪魔でさえも神のみことばが真理であることを認めざるを得ないのです。しかし、悪魔は自らを低くして神のみことばに従おうとはしません。これこそ罪そのものです。しかし、悪魔は神のみことばである聖書が真理であるということを知っているからこそ、そのように人間から奪い取ろうとするのです。そして完全に奪い取ることができない場合にはみことばの下にトンネルを掘って土台を崩そうとするのです。

 悪魔は私たちから聖書を奪い取ろうとしますが、うまくいかない時には聖書を穴だらけにして役に立たないようにしてしまおうと企みます。この悪魔の企てが成功しますと、聖書は私たちにとってもはや巌の土台ではなく揺り動く大地となり、私たちを罠にかけてしまいます。悪魔は初めから偽り者であり、神のみことばは神のみことばではない、神のみことばは一部分だけ神のみことばであるということを人間に信じ込ませることに成功した時、悪魔の目的を達成したことになります。それによって、悪魔は私たちの日常生活を無力にし、私たちの奉仕を不毛としたことになります。

 聖書全体が完全な神の霊感によるものである、という事実から出発しないようなものである福音宣教や聖書研究は初めから無効であることになってしまいます。その結果、空しい努力がなされ、いつも落胆の結果に終わります。それは空気を打つようなものです。ですから、悪魔はあらゆる信者を聖書の完全な霊感によるものとする信仰から引き離すことに一生懸命がんばるのです。神のみことばはダイナマイトのようなものです。なぜなら、みことばによって巌は爆破され鎖は解け、悪魔のとりこから解放されるようになるからです。しかし、私たちは神のみことばに徹頭徹尾信頼しなければ悪魔にとって要注意人物とはなりません。みことばを信じないことは、悪魔の嘘を信ずることになります。

 主なる神の切なる願いは人間がみことばを百%信じることです。創世記15章16節に「アブラハムは主を信じた」と書いてありますが、ひとりの人間がアブラハムのような態度を取る時、天において大いなる喜びが上がるのです。主のみことばを信じることが今日の私たちと同じように、アブラハムにとっても簡単なことではありませんでした。信仰によって昔の信者たちは生き歩み行動しました。彼らはただみことばだけに頼ったのです。イスラエルの民の悲劇は神のみことばを預言者たちの口をとおして与えられていながら、信じようとしなかったこと、信じたいと思わなかったことにありました。聖書のどこを見てもイスラエルの民が神のみことばを信じることができなかったと書き記されておらず、信じようとしなかった、ということがわかります。前に読みましたエレミヤ記25章3節4節をもう一回お読み致します。
アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。

と、あります。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかった」とあります。イスラエルについてはこう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中手を指し伸べた」とロマ書10章21節にあります。そしてこの不信仰の恐ろしい結果はイスラエルの歴史にあらわれています。

 主イエス様はこの地上において生涯の間、イスラエルの民、パリサイ人、聖書学者、律法学者、弟子たちが神のみことばを信じるようにとどれほど一生懸命になられたことでしょうか。主イエス様がいつも繰り返しお責めになったただ一つのことは神のみことばとご自分のお語りになったことに対する人間の不信仰でした。

ヨハネ伝5章46節、47節です。
もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」

と。復活された主イエス様はエマオの途上で神のみことばに対する弟子たちの不信仰について真剣に弟子たちにお語りになっておられました。ルカ伝24章25節から27節までです。
するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

と、書いてあります。主は、今日、信者たちの不信仰について何とおっしゃるでしょうか。ヨハネ第一の手紙5章10節に
神を信じない者は、神を偽り者とするのです。

と、あります。このことばはわれわれにとって何と重大な意味を持っていることでしょうか。これは今日の信者及びイエス・キリストのからだなる教会の最大の負い目です。すなわち、あらゆる聖書批判は神を偽り者とするのです。何と深くこの罪の中に私たちは入り込みやすいものでしょうか。私たちは大きな問題がなければ、自信をもって聖書は神のみことばであると言い張ることができるでしょうが、全部滅茶苦茶になってしまうような状態が発生しますと、簡単に主のみことばに頼ることをやめ、主の約束に信頼を置けないようになってしまうのではないでしょうか。ですから、私たちはそのようなことをとおして主なる神のご栄光を恥ずかしめ、傷つけしてしまったことを悔い改めましょう。

引用者註: 昨年の12月7日以来連載させていただいたGodhold Beck兄の『聖書』についてのメッセージもいよいよ明日で終わる。今日はベック兄が召されて142日経つ。日毎に地上でのベック兄との交わりの記憶は遠のいていく。しかし、今日このように録音テープによりその肉声が聞け、信仰の基本的な姿勢の原点を教えていただくことができるのは私にとって何より感謝であった。昨日は97歳の方と一時間余りみことばによるお交わりができた。ご老人はとっくに耳が聞こえなくなっておられるというのに。今日は今日で尊敬する方が祈っている方を見舞われ、みことばの宣べ伝えをなさったが、お帰りの際、私どもの家にもお寄り下さり、そこでの恵みのおすそ分けに預かった。みことばがいかに真実なものかを改めて考えさせられている。)

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