2017年1月19日木曜日

こんなにすばらしい救い(上)

 今日の交わり会の主題はヘブル書2章3節からの短いことばです。すなわち「こんなにすばらしい救い」であります。「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。」今読まれましたマタイ伝1章18節から25節までの、21節と25節をもう一回部分的にお読み致したいと思います。
21節
その名をイエスとつけなさい。

25節
その子どもの名をイエスとつけた。

と。

 イエスという名前は罪人の救い主を意味します。21節に書いてありますように「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と書いてあります。これこそ、主イエス様に与えられた使命でした。それですから、望みはすべての人のために存在しています。もっともひどい罪人に対しても望みがあります。聖書によれば全人類は罪の重荷のもとに嘆き呻き苦しんでいます。と言うのも「すべての人は罪を犯して主なる神の栄光を受けられなくなっているからです。」ロマ書6章23節に
罪から来る報酬は死です。

と、書いてありますが、別のことばで表現すれば、罪は罰せられなければなりません。しかも神はいかなる罪をも見逃すことができません。罰がなければ赦しはないというこのことは聖なる神の確実な判断なのです。聖書の喜びの訪れというのは、十字架におけるイエス様の死をとおして全人類の罪がすでに罰せられているということです。私たちが受けなければならなかったはずの罰を主イエス様がご自身の上に受けて下さいました。

 十字架につけられた方、すなわち主イエス様は人類の罪に対する主なる神の裁きを、ご自身の身の上に引き受けて下さり完全な贖いを成就して下さいました。主イエス様が永遠からこの地上にいらっしゃった時、「その名をイエスとつけなさい。この方こそご自分の民をその罪から救って下さるお方です」と言われました。主イエス様のご降誕は決して主の始まりではなく、この地上に来られたことに過ぎませんでした。主イエス様は目に見える世界と目に見えない世界の造り主です。

 聖書から二三ヵ所お読み致します。ヨハネによる福音書1章1節から3節まで
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

14節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

コロサイ1章16節
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

ヨハネ黙示録4章11節に
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

そして、最後にピリピ人2章6節から8節までです
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

と。そしてヘブル書9章26節の後半に
しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

 主イエス様はご自分の教えによってではなく、ご自身の犠牲によって、すなわち死によって罪の問題を解決して下さいました。キリストの教えではなく、主イエス様の死が聖書の中心なのです。

 もう一度申し上げますと、どのような罪を犯したかは問題ではなく、すべての人のために希望が存在してるのです。主イエス様がご自身の流された血潮によって贖いの代価を支払って下さいましたので、主は赦してくださるために、悔い改めの備えのある罪人を待っておられるのです。罪の赦し、それはすべての人が必要としているのです。誇り、高ぶる人、自己正当化する人はわざわいです。最後の赦しを得るために主イエス様のもとに来たいと思わない人はわざわいです。

(引用者註:この集いはいったいいつごろのものなのでしょう。1980年代の半ばごろではないかと私は推定しております。それはベック兄より一足先にすなわち2014年に召された染野兄が司会をなさっておられるからです。なお引用箇所としてはマタイ伝1章18節から25節までが朗読されています。罪の赦し、それはすべての人が必要としているもので、またその罪はたとえどんなひどい罪でも、イエス様の十字架の贖罪死によって赦されていると確信をもって語られています。資料はろばの子サーバーDVD1 CD#10 130の録音から聞き書きであります。GB[150]。なお、本日はオースティン・スパークスの今日の分をhttp://stryasheep.blogspot.jp/ に訳し、掲載しました。そちらの方もご覧いただけますならば幸いです。)

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