このようにして、ふたり(アダムとエバ)の目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(創世記3:7)
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創世記3:21)
主なる神の目から見ると、この世には二種類の人間、すなわち「失われた人間」と「救われた人間」がいます。人間がどのような宗教を持つかということは問題ではありません。それはどうでもいい問題なのです。なぜなら、「救い」はいかなる宗教によっても実現されないからです。あらゆる宗教は人間がつくった産物です。
宗教は次のような事柄にたとえて考えられます。すなわち初め(て)の人間であるアダムとエバは主なる神の命令に背いて罪を犯した時、自分たちが裸でいることがわかり、その裸を隠すために木の葉を用いました。この裸を隠す木の葉のようなものが宗教であり、と言ったらば、恐らくお分かりいただけるのでないかと思います。けども、それに対して主なる神は罪のない動物を殺し、その毛皮から人間のために着物をつくってくださったと聖書は言っています。まことの「救い」とは言わば、主なる神がつくってくださった毛皮のようなものであります。宗教とは人間がつくりだした木の葉を綴り合わせたものにたとえられるでしょう。
主なる神によって最初につくられた人間は罪を犯して失われた者となりました。そしてそのすべての子孫たちもこの最初の人間から、堕落した人間性、すなわち罪の性質を受け継ぎました。その結果、私たちもまた「失われた者」となったのです。私たちが罪人であるのは私たちが罪を犯したからではなく、最初に罪を犯した人間の子孫だから罪人なんです。すべて失われた魂は悪魔の子であり、すべて救われた魂は、新生の経験による神の子なのであります。
どうか、生けるまことの神の前に正直であってください。あなたはいったい失われているのでしょうか 。救われているのか、どちらでしょうか。あなたは神の子ですか。悪魔の子なのでしょうか。ヨハネ第一の手紙3章10節に両方のことばが出てきます。
そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。
と、書いてあります。
もう一度お訊ねしますが、あなたは神の子なのでしょうか。それとも、悪魔の子なのでしょうか。恐らくあなたはこのように直接聞かれる、単刀直入の質問を好まないことでしょう。そして今まで誰もあなたに対してそのような質問をしなかったことでしょう。たとえ今までにあなたが教会に行ったことがあったとしても、そのような質問はされたことはなかったかも知れません。恐らくもしそうだったら、その教会の牧師さんと言えども救われていなかったことでしょう。もし救われていなかったならば、その人がこのような質問をするはずがありません。その牧師が救われていないのであるなら、確実に地獄に行くでしょうが、あなたもまだ救われていないのなら地獄に行かなければならないと聖書は言っています。
多くの人はあなたをもふくめて今まで地獄へ行くような悪いことをしたことがないので絶対に地獄に行くことがないと考えています。あなたは規則正しく教会に行き、非常に規則正しく聖書を読み、教会生活では積極的な役割を活動に参加し、日曜学校の先生もつとめ、聖餐式に預かり、個人でも家族全体でも規則正しく祈り、貧しい人に施し出来る限り最善を尽くしたと言うかも知れません。けども、これらのすべての働きについて、主なる神のみことばが何と言っているか、あなたはご存知でしょうか。イザヤ書64章6節に主は、次のように言っています。人間の働きについて、
私たちはみな(例外なく)、汚れた者のようになり、私たちの義はみな(例外なく)、不潔な着物のようです。
と、書いています。私たちはあらゆる宗教的な行ないは聖なる神の前では不潔な着物のようです。ハバクク書1章13節に書いてありますように、主なる神はきよく、悪を見ず、不潔な着物と同じような宗教的な行ないをご覧にならないとあります。
あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。
と、あります。
罪の中に生まれた人間の希望とはいったいどのようなものでありましょうか。ダビデというイスラエルの王様は詩篇51篇の5節に
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
と、書いてあります。私たちは咎ある者、罪ある者として生まれましたから、思い・ことば・行ないにおいて、罪を犯す者です。いかなる宗教もあなたを救うことは出来ません。そして、もしあなたが自分を救ってくれると思い込んでいるあなたの宗教に信頼しているならば、あなたは永遠に失われた者となります。実際、そうなんです。あなたが宗教的であるということは救いのために何の役にも立ちません。なぜなら、あなたは失われているからです。けども、主なる神はあなたを罪から救うために、救い主をお与えになるという素晴らしいご配慮をしてくださいました。けども、その救い主を受け入れる代わりに、自分の宗教のために一生懸命に働いて自分自身を救おうと試みています。
昔、ニコデモというヨハネ伝3章に出て来る人なんですけど、彼は非常に宗教的な人でした。イスラエル民族における指導者、聖書学者でした。このニコデモは主なる神の律法をよく守り、神学に非常によく精通していましたが「失われた人間」でした。ですから、イエス様は彼に向かって「あなたは新しく生まれなければ決して天国に入ることは出来ません」と、はっきりおっしゃったのです。
(引用者註:『宗教の空しさ』と題するベック兄のメッセージ[ろばの子サーバーDVD1CD#10の0130]の聞き書きである。私たちの集会は教会生活に矛盾と問題を感じて教会から出てきた人が多かった。残されている1990年6月29日の家庭集会のメッセージをお聞きしたが、多分にそのことを配慮されたかに思える内容であるが、非常に長い。原典はおそらくこの『宗教の空しさ』という題名のメッセージもその一つなのではないかと思い、三回の予定で聞き書きを掲載する。ベック兄はその『神の愛』という著書のまえがきの中で「キリスト教に対する反対!」という題名をつけたいくらいだと言われている。そのお気持ち・理由がこのメッセージを虚心坦懐にお聞きするとよくわかる気がする。Godhold Beck[147日]。なお、オースティン・スパークスの今日の分は2012年1月16日にすでに訳してあります。興味のある方はhttp://stryasheep.blogspot.jp/をご覧ください。)
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