すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11:28)
使徒パウロもまた非常に宗教的な人だったのです。けども、彼も失われていました。 しかし、このパウロは主イエス様との出会いを通して、自分の罪の状態に心の目が開かれ、それと同時に主なる神の偉大さ、救いの素晴らしさも知ることができたのです。パウロは次のように告白しています。ガラテヤ書1章12節に
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
人間から受けなかったし、教えられもしなかった。イエス・キリストの啓示によって、自分のものにしたのですと彼は証しています。すなわち、彼はイエス・キリストを知ることによって、「失われた者」から「救われた者」に変えられたのです。彼はテモテ第一の手紙1章15節に
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
と、証しています。ここでイエス様は「道徳」や「宗教」を与えるためではなく、「罪人を救う」ためにこの世に来たとおっしゃっています。そのように宗教的だった人は、しかしながら失われていた人は、「罪人」として主イエス様のみもとに来て救われたというような人は何百何千万というような数に上ります。たとえ非常に宗教的なお坊さん、教会の牧師、あるいは哲学者、あるいは博士あるいは技師、法律家、あるいはその他どのような職業であろうとも、あなたは失われた罪人として、救いの恵みを受けるために主なる神の前に行かなければなりません。あなたはそのままの状態で、すなわち乏しく、失われている、そのありのままの状態で主イエス様のみもとに行って下さい。そうすればイエス様はあなたを受け入れ救って下さいます。
ヨハネ伝1章12節に
しかし、この方を(キリスト教の教えとは書いていないのです。「この方」を、すなわちイエス・キリストご自身を)受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
と、あります。イエス様のみもとに来るすべての人をイエス様は確実に救って受け入れてくださいます。わたしのもとに来る者をわたしは決して捨てませんとイエス様は約束してくださったからです。教会、お寺その他あらゆる種類の集会所は宗教的ではあるけど、失われた人々で一杯ではないでしょうか。
パウロはコリント第二の手紙4章の3節と4節に、悪魔の働きについて次のように書き記したのです。
それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神(すなわち「悪魔」)が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
と、書いてあります。
何年か前のことですが、臨終の床におかれている若いカトリック信者がいました。彼は自分は失われていること、そして恐ろしい状態に置かれていることを知っていました。「死」は恐ろしい現実であり、今まで一度も味わったことのないような不安を人々に与えます。神父が来るようにと呼ばれました。かけつけてきた神父は一冊の本からいくつかの祈りを朗読し、あわれな死につつある若者に秘蹟をし、また「何も恐れるものはありません」と告げました。その神父が立ち去ると、すぐに一人の友だちが若者に言いました。「あなたは今やしあわせで平安に死んで行けると思いますか」と訊ねたんです。「絶対、そんなことはありません」と若者は答えました。「私は全然しあわせではありません」「私は平安を持っていません」「私は平安がなければ死ねません、どうしたらいいのでしょうか」と叫んだんです。
あらゆる儀式や形式をともなう宗教と言えども、キリストなしには死の床にたましいに平安を与えることは絶対にできません。しばらくすると別の友だちが彼を見にやって来ました。そして、次のような美しい賛美歌を彼に向かって読み始めました。
主イエスよ、私は今
ありのままの状態で罪人として
あなたのみもとに参ります
私は滅ぶべき者ですが
主の流された血潮によって
私の罪も罰せられたことを感謝します
私は自分の力では何もできませんが
神の小羊であるイエス様が救いの御手を
差し伸べてくださっていることを感謝します
あなたを受け入れ信じます
この最初の一節が読まれるのを聞くやいなや、死につつある若者は心の奥底から、真剣にどうかもう一度読んでくださいと言いました。この賛美歌は何度も繰り返し読まれました。すると、その若者はあたかも彼のいのちがすべてそれにかなっているかのように耳を澄ませ、ことばの一つ一つを噛みしめました。
(引用者註:見出しの赤字のみことばは引用者の判断でつけくわえているもので、そのあとからが昨日のベック兄の『宗教の空しさ』と題するメッセージの聞き書きの続きです。今日の火曜学び会では『死刑囚への手紙』という題名で2サムエル12:1〜7が引用聖句として語られた。証しは「ゆずり」ちゃんのお父さんだった。GH[148])
2017年1月17日火曜日
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