2017年1月9日月曜日

神様 キリスト あなた

蝋梅を 指し示す手に 望み継ぐ

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。(ヘブル4:15)

 あなたが今通らされている事態だけでなく、その思いにもすぐに同情を寄せてくださるイエス様のことを思いなさい。「同情してくださる」そのことばはどれほど深きものを私たちにもたらすことでしょうか。イエス様だけがわかってくださる痛み、ことばで表現できない弱さのうちにいて、主の方を向く時、全く異なった感覚で主に取り扱っていただかねばならないことを知ります。それは、私たちが他の誰かに関わっていただかねばならないと思うことと、どれほど異なっていることでしょうか。私たちはイエス様なしにはできなかったし、イエス様なしには決してしてはいけないということを神様に感謝するものです。 

 ですから、私たちは万事につけ、主に対してだけ責任があるのです。主人の心次第で私が立つか、それとも倒れるかです。そして、その後者が代わりうるか、使徒が付け加えているように、ただちに「このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです(ローマ14:4)。」すなわち彼は主人のしもべだからです。 もし主から命令されるなら、私たちは主に対して弁明しなければなりません。

 私たちは主イエス様と直接関わらねばなりません。それは非常に直接的なのでまずその直接性を把握することがむつかしいです。もし私たちがその直接性を持つだけなら、たましいとイエス様の間には絶対何もありません。私たちはイエス様御自身を神様と私たちの仲介者としていただいています。そして仲介者の性格というものはまさしくヨブが「私たちふたりの上に手を置く仲裁者(ヨブ9:33)」というものです。そのようにイエス様の御手、「神の右の座にいる人の子である」イエス様御自身の御手は私たちの上に何の仲介もへだたりもなく置かれるのです。私たちとイエス様御自身との間では私たちはいかなる人間の声はもちろんのことどんな文書も必要としないのです。

 あなたに、親愛なる救い主に、私のたましいは憩いを求めて向かいます。その転換は 私たちがかつて主イエス・キリストと直接に個人的にかかわることがどういうことであるかを学んだ時の直感的であり即時的なものであります。その時、いのちは影があろうと日向であろうと見知らぬ人がおせっかいをしなかろうと私たちの喜びと全く異なるものです。おそらく自ら告白もしクリスチャンと自称する人々の間に奇妙に違いを感じさせるのはまさしくこれでしょう。

「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう(出エジプト記33:14)
不安な胸の内をやわらげてくれる 甘くもやさしい約束
イエス様は 孤独なたましいを ご存知です 
そして 隠された悲しみのすべてを
地上のどんな友も理解してくれない 疲れ果てし心の切なる思いを
イエス様は 全部 ご存知です
あなたは ひとりじゃないと ともにいまし 囲みのうちに入れられ
あなたは 主の王座の影の下で ゆっくりと 憩うことができます

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-9-god-christ-you/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97173です。ハヴァガルの訳業も一年間、苦しみながらやっと今日で一巡りしました。ほとんど逐語訳に近い訳となりましたが、自分の中でハヴァガルの信仰が少しずつつかめてきたことは感謝でした。ハヴァガルが小さい時から聖書を暗唱していたということは驚きでありましたが、そのお陰で遠く異国の地である日本人キリスト者である私にもその一端が伝わって来たのは不思議な思いでいます。なぜなら、わからない英文ばかりですが、ハヴァガルが聖書を覚えおり、自由自在に自分の文章に挿入するからです。ただし、その文章はかっこ付きで示されていますので、私の仕事は一体どこの聖書のことばなのかそれを調べるのが中心でした。YouVersionのアプリを利用してその箇所がつかめると他の箇所の理解がより一段と進んだ感じがしました。こうして日々翻訳を続けて参りました。慣れない下手な訳文にもかかわらず背後で応援し祈ってくださった皆さんに心から感謝します。

※Godhold Beck(140)

『聖書とは何か』第六部 [1]

 今まで、私たちは聖書が神のみことばであることを見てきました。そして預言者たち、使徒たちによって宣べ伝えられ、また書かれたみことばが、神によって受け取られたみことばであることをも見てまいりました。すなわち、これは語られ、書かれたみことばと受け取られたみことばとが等しいことを意味しています。また、私たちは今までに神が預言者たちをとおして、使徒たちをとおしてお語りになったということを確認して参りました。したがって、書かれたみことばと受け取ったみことばとは等しいということが明らかになったわけです。

 今までのことをここでわかりやすくまとめてみましょう。先ず第一に言えることは神のお語りになったみことばと人間、すなわち預言者たちや使徒たちが受け取ったみことばとは等しい、同じものであるということです。第二に預言者たちや使徒たちが書き記し、宣べ伝えたみことばは彼らの神から受け取ったみことばと等しい、同じものであるということです。したがって、その結果として第三に言えることは主なる神のお語りになったみことばは預言者たちや使徒たちの宣べ伝え、書き記したみことばと等しいということです。この結論は否定することができません。

 もう一度、以上のことをまとめてみますと、次のようになります。神によって語られたみことばは変わることなく、また完全な形で預言者たちや使徒たちによって語られ、書き記されてみことばの中に表現されているということです。そしてまた、神によって語られたみことばは、人間たちによって受け取られたみことばに等しく、そしてまた同じように人間たちによって宣べ伝え、書き記されたみことばに等しいということです。すなわち、聖書は神のみことばです。

 もう一つの点について考えてみたいと思います。すなわち、神のみことばに対する信仰あるいは聖書に対する私たちの立場について、これからご一緒に見てみたいと思います。聖書が自らについて証しする事柄、言わば聖書の自己紹介は何かと言いますと、それは神のみことばであるということです。もう少しくわしくご説明致しますと、聖霊によって与えられ預言者たちや使徒たちによってみこころにかなって書かれたものです。聖書の要求は極めて明瞭です。すなわち、聖書はすべての部分において、一つ一つのことばにおいて、まことの神のみことばであることを主張しているのです。

 それでは今、私たちはこの聖書の要求に対してどのような態度や行動を取りたいと思っているのでしょうか。私たちは自由に決断すべきです。すなわち、私たちはこの聖書の要求を拒むか、あるいは素直に受け入れるかのどちらかです。聖書の要求を受け入れる人は、それによって聖書全体を獲得します。しかし、この要求を拒む人は、聖書全体を失う者です。事実上、次の一つの事は不可能です。すなわち、聖書の要求を全部、あるいは一部否定して、しかしながら聖書の他の箇所を信じたいと思うことは全く不可能なのです。聖書の言っているすべてが正しいか、あるいは聖書の言っている何一つ信頼できないかのどちらかです。人間は誰でも聖書に関して根本的な決断をしなければなりません。つまり、誰でも聖書に対して立場を取らなければならないのです。しかし、みことばに対する私たちの立場は一人の人格に対する立場なのです。私たちは見たように、聖書をとおして神はお語りになっています。主なる神は聖書を「我がことば」と呼んでおられます。主なる神はまた御子を通してお語りになったのです。そして主イエス様は新約聖書について「我がことば」と言っておられます。

 したがって私たちは一つの人格すなわち私たちにお語りくださる主なる神ご自身に対して直面しているのです。ヘブル書4章12節13節お読み致します。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

と。「神の前で隠れおおせるものは何一つなく」「私たちはこの神に対して弁明をするのです」。したがって、神のみことばである聖書に対する決断とは私たちにお語りくださる人格者、すなわち主なる神に対する決断であり、みことばに耳を貸さないということはみことばをお語りになられる主なる神を無視することになるのです。

引用者註:これほど徹底的な聖書に対する信頼・確信はありません。ベック兄の全生涯を支えた、微動だにしない信仰の強さを思うことができます。あなたは全聖書を受け取りますか。それならあなたは全聖書の祝福を受け取ることができます。もし受け取らないなら、祝福を失いますと明言しておられるからです。引用者の乏しい経験でも全聖書はまさに「わたしは彼らを幸福にする」とおっしゃる神のみことばであると確信する者であります。)

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