引用箇所 民数記8:14、16、24
今日は日曜日に引き続いて少しだけキリスト者の使命について考えてみたいと思います。救われた人々は結局皆一つの使命を持っています。いつも言われることですけど、救われた人々は救われるために救われたのではなく、用いられるために、主の道具となるためです。救われることとはもちろん一つの宗教に入ることでもないし、もちろん、キリスト教と言う宗教を持つことを意味しているのではありません。
たいせつなのは、キリスト教、キリストの教えというものよりも、イエス・キリストご自身を知ることです。人間は一つの教えを知ることによって、信じ込むことによって救われないからです。人間を救うことのできるのは、神の救い主なるイエス・キリストだけです。救われることは、したがって何かを経験することを意味しているんじゃないし、一つの教えを理解することでもありません。救いとは何であるか、はっきり結局説明できる人間はいないのではないかと思うんです。説明することができれば、理解することができることであり、そうすれば、やっぱり頭のいい人々皆先に救われることになるからです。決してそうではありません。
救われた人とは何を証することができるかと言いますと、「私の罪過ち・わがままは偉大なる神によって赦されたのであり、私は永久的に受け入れられている者です。今晩死んだとしても必ず天国に行くようになる。」本人はどうしてこの確信を得たのか、もちろんはっきりつかめないでしょう。けども、この確信から離れられないことは素晴らしい事実ではないでしょうか。
今お読みになりました箇所を読みますと、レビ人についていろんなこと書いてあります。レビ人という人はもちろん救われた人々だったんですね。イスラエルの民に属する人々だったんです。イスラエルの民に属する人々は、結局皆自分たちの代わりに流された小羊の血のきよめる力、解放する力を体験的に知るようになった人々だったのです。彼らはわれわれは神の恵みによって救われた、解放されたと皆告白することができた人々だったのです。けども、彼らにとって大切だったのは救われることだけではなく、用いられることです。そして、彼らはほんとうに主を証しする証人だったのであります。
日曜日もちょっと言いましたように、彼らはいわゆる会見の幕屋を、契約の箱を担うつとめをする人々だったんです。16節を見ると全く「神にささげられていた者」はレビ人だったのですし、14節を見ると結局彼らは「わたしのもの」だと言われたのです。救われることとは主のものとなるということです。主に属することこそがまことの救いであります。そして、レビ人たちとは、一つ残らずすべてを主におささげした人々だったんです。すべてを主にささげ尽くしたこのレビ人こそ主の栄光をあらわすことのできる模範の人々と言わなければならないかと思うんです。
いわゆる契約の箱とは主の臨在をあらわすものだったんです。そして、彼らはこの契約の箱を運ぶ者たちだったんです。結局、イスラエルの民は主の臨在の雲の柱が上がったとき、今まで止まっていたところから出発して、この臨在の雲に導かれ、この雲が再びとどまったところで、民たちも止まったのです。先頭にいた人はいつもこのレビ人たちであったのです。彼らは神の臨在の雲がとどまったところには素直にそこにとどまったのです。どうしてであるかもちろんわからなかったのです。けれども、これこそ主のみこころであるから、彼らは素直に従ったのです。そこがどんなに醜い場所であっても、また見る目に良くない場所であっても導きのままに止まったのです。これを通して彼らはほんとうに主に仕える人々だったのです。
彼らの一つの大切な特徴は何であったかと言いますと、主なる神に対する礼拝だったんです。彼らの生活そのものを通して主はあがめられ、礼拝さるるようになったのです。日曜日ちょっとだけこの礼拝の内容について、意味について考えたんですけど、今日はもう一つの別の特徴について考えてみたいと思うのです。すなわちこのレビ人の第二番目の特徴は奉仕でした。仕えることでした。イエス様も自分のことについて、「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来たのです。わたしは奉仕するために来たのです。」と言われたのです。
「奉仕」とは、レビ人のご奉仕とは、我々の奉仕とはいったいどういうものであるべきでしょうか。ヨハネ伝の6章29節に一つの答えが書き記されていますが、すなわちイエス様が次のように言われました。ヨハネ伝6章29節
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
と、書いてあります。神に対するご奉仕とは、すなわち信ずることであるとこの箇所を通しても言えるのでないかと思います。不思議なご奉仕の定義だと思います。まことの奉仕とは「信仰」のあらわれであるべきです。たとえ私たちが全生涯をささげ、持っているすべてのものをささげたとしても、「信仰」がなければ、そこにはご奉仕もありません。ヘブル書の著者は11章の6節に次のように書いたのです。良く知られている大切な箇所です。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。(「信仰」について考えるとひとことだけ覚えれば一番分かりやすいと思うんですね。「信仰」とはひとつの教えを信ずること、理解することじゃなくて、イエス様とつながっていることです。イエス様とつながっていない人は決して・・・からです。ここで)信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
イエス様に出会った人々は皆一つの切なる願いを持っていると思います。すなわち、主に喜ばれたい、いい子になりたい、主に用いられたい気持ちを持っているのです。ここでたいせつなのは「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」喜ばれようと思えば、主に頼りなさい。みことばにだけ頼りなさい。立派になれ、聖書研究せよ、熱心にこれとあれをやりなさいということでなく、ただ素直に主に頼りなさい、ということです。信仰なくして主なる神に近づくことは無意味です。同じように信仰なくして主にご奉仕することも無意味です。けど、主を信ずるとは何を意味しているのでありましょうか。
(引用者註:今日の箇所はろばの子サーバーDVD#1 CD#19 0252のキリスト者の使命2奉仕の聞き書きである。GB[158]。本日のスパークスは1月10日分を『イエス様はいのちの賦与者なんです』という題名で訳出した。なお本日の1月27日分は『私は見える』と題して2011.1.27に訳出済みである。http://stryasheep.blogspot.jp/ 併せてお読みいただければ幸いである。)
2017年1月27日金曜日
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