2017年1月20日金曜日

こんなにすばらしい救い(中)

 (誇り、高ぶる人、自己正当化する人はわざわいです。最後の赦しを得るために主イエス様のもとに来たいと思わない人はわざわいです。)それほど愚かなことはありません。木はその実によって知られます。これと同じように私たちは主イエス様を信じることによって変えられ、新しく造られた人々によって主イエス様の贖いの偉大さを知ることができます。人生を通して何十年もの間、神もなく望みもなく生きてきた人が今日イエス様を信ずることによって確固たる人生の目標をもち望みに満たされているそのような人々が大勢私たちの中にいます。なぜでしょうか。

 その人たちは主イエス様によって新しい人間とされたのです。ある人は次のように訊ねられました。あなたはすでに福音を聞きましたか。答えは次のようなことでした。いいえ、私は聞いたことがありませんが、見たことがあります。すなわち、近所の人がいたのですが、その男の人はすべての人によって恐れられ、避けられ、その人が酔っぱらうと猛獣のように暴れ回りました。しかしこの男の人はイエスを信じ、自分の人生の中に受け入れたのです。それ以来すべてが新しくなりました。

 今日は「とよだきよし」兄弟も証しをしてくれます。彼のお嬢さんは私に次のように言いました。「私のお父さんは主イエス様を信じてから、私は新しいお父さんを貰いました。私はイエス様を信じるということがすばらしいものだということを知りました」と。これは娘のあやこちゃんの素晴らしい証ではないでしょうか。

 ここでちょっとたくさんの宗教の事を考えてみて下さい。すべての宗教はこれもあれも約束しますが、しかし人々はそれによって騙されるだけなのです。というのは、罪の赦しと永遠のいのちの確信はただ主イエス様だけが提供して下さるからです。主イエス様は債務を赦して下さいます。主イエス様は罪に対する勝利を与えて下さいます。主イエス様はひとりの人間を根本的に変えて下さいます。

 それでは主イエスはいったいどのように一人の人間を変えて下さるのでしょうか。罪を好い加減にすることによってではなく、罪の源を示すことによってです。マルコ伝7章の21節からお読み致します。イエス・キリストのことばです。
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

と。イザヤは同じことを別のことばで言っています。1章5節の後半から
頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

と。最近大阪から一組の夫婦がやって来ました。私は非常に心を動かされ悲しくなりました。その夫婦は結婚していたのですが、二人とも自分のしたいことをしているのです。その二人はまことの一致を一度も知ることがありませんでした。二人は宗教について何も知りたいと思いません。どうしたらこの夫婦を助けることができるでしょうかと私は考えました。すると突然その奥さんが言いました。ただ一つの可能性が、生まれ変わることでしょう。もちろん彼女はこの地上でこの人生において全然可能性がないと思っていました。しかし、もしも私たちがこの世に再び人間として生まれることができるならば、多分可能性があるだろうという意味でした。

 もちろん私は当然のことながらこの奥さんのことばをとらえて言いました。「そのとおりです。新しく生まれ変わること、そのことが実際可能なのです」というのは主イエス様はそれを提供して下さるからです。主なる神の霊は霊的に死んでいた人を生き返らせることができます。主イエス様は心を開いて求めたニコデモに向かって次のように言われました。ヨハネ伝3章3節
まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

主イエス様を自分の人生に受け入れる者はそれによって新しいいのちを貰います。主イエス様を自分の人生に受け入れる者は、私は死からいのちに移されていると証しすることができます。主イエス様を自分の人生に受け入れる者は、罪が赦されていることを知り、そしてやがて栄光に包まれてイエス様のもとで永遠の時を過ごすことを知っています。

 以前、仏教徒だった人がイエスを自分の人生に受け入れ、それによって本当に新しい人間になりました。その人はしばらくしてから一つの夢を見たのですが、それは実際自分の経験したものを反映したものでした。彼は深い穴に落ち、深い深い泥沼に沈んで行きました。彼が助けを求めて上を仰いだ時、恐るべき一人の老人が自分を見下ろしているのが見えました。するとその老人が言いました。「わが子よ。お前は何という恐ろしいところにいるのか。」「私は知らずにこんなところに堕ちてしまったのですが、ここから抜け出すことができないのです。あなたは私を助けることがおできになれませんか。」すると、その老人は答えました。「私は孔子です。お前は私のたくさんの本を読んで私の教えに従っていたならば今日別のところにいたことであろう。」「確かに、その通りです。しかし、今私はここにいるのです。どうか、私を助けて下さい。」とその人は叫びました。しかし、孔子はもはや二度と見ることができませんでした。私は絶望的になってあたりを見まわし、別の人が見えないかと探し、一人の別の老人がそこにいたのは何という喜びだったでしょうか。

(引用者註:さて、その別の老人とは誰でしょうか。続きは明日です。オースティン・スパークスは1月1日のものを「永遠のご計画」と題してhttp://stryasheep.blogspot.jp/に掲載しました。そちらの方もご覧ください。どうも今年はベックさんとスパークスさんの競演になりそうです、このブログ。お二方のメッセージを通してより深い聖書理解が得られますようにと祈るばかりです。GB[151])

0 件のコメント:

コメントを投稿