2017年1月29日日曜日

奉仕とは何か(下)

 多くの人々はやっぱり正しい教えこそがもっとも大切だと考えていますけど、決してそうではありません。多くの律法学者たちは正しい教えを持っていました。イエス様はそれ確かに言われたのです。彼らの教えていることは正しいとイエス様は言われたのです。けども、もちろん彼らはへりくだっていなかったし、頭を下げたくなかったから、決して救われていなかったのです。

 ですから、正しい教えであるかないかよりも、たいせつなのはいのちがあるかないかということなんですね。主が働くことができるかできないか、まことの喜びがあるかないかということです。イエス様は豊かなるいのちを得させるためにこの世に来てくださったと聖書は言っています。

 豊かないのちを持つ人は証し人となり、そういう人々をとおして主は栄光をお受けになります。けど、多くの信ずる者はイエス様に対する信仰と愛が余りにも小さいので、何か起こるとすぐにぐらついてしまいます。ヨハネ伝の4章の中でイエス様は非常にめちゃくちゃな生活をした、いわゆるサマリヤの女に非常にすばらしいことばを言われたのです。ヨハネ伝4章の14節です。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。(渇くことがないのは恵みで満たされていることです、喜びに満たされていることです、神の平安によって守られていることです)わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

と、あります。我々のうちに泉を持つことは主の意図されるところです。私たちはこのような学び会をすることは、もっと聖霊をもらうためではありません。頭の知識を得るためでもありません。私たちは既に信ずる者として、イエス様を受け入れた者として、聖霊を宿しています。我々は心に、したがって、泉を持っているから、水を探しに行く必要はない。キリスト者は、イエス様を信じ受け入れた人々は、めいめい全き欠けたところのない聖霊を宿しています。聖霊は人格者です。聖霊を部分的に貰うことはあり得ないことです。

 けど、多くの信者は詰まった管のようで、その中をとおって流れません。聖霊は我々のうちに少しだけではなく、完全に満たされることだけができるのです。信じている者は聖霊を宿しています。聖霊はどのような割合で与えられるのでありましょうか。それは流れるように与えられるのです。イエス様は、聖霊について使徒行伝の1章8節に次のように言われたのです。ここでもイエス様はキリスト者に与えられている使命について、そしてその使命を果たす秘訣について次のように言われたのです。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 聖霊に満たされることと主の証人として用いられることとは同じことです。これはイエス様の言われた約束であり、イエス様の最後のおことばでした。それからあとイエス様は天にお帰りになり、父の右に座しておられるようになったのです。そしてイエス様はここではっきりキリスト者の使命について「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人」となるべきであると言われたのです。信ずる者の使命は自分の信仰を守ることだけではなく、もちろん家族の救いのために、親戚友人たち知り合いの救いのために闘うことであり、祈り続けることです。ここで全世界に福音が信ずる者によって宣べ伝えられなければならないと書いてあります。

 もし私たちが大胆な証し人でなかったなら、管が詰まっているのです。すなわち、私たちは役割を演じたく思ったり、傲慢であったり、妬みを持ち、人を赦さず、怠惰であるからです。イエス様との交わりを疎かにしているからです。へりくだりましょう。管が通り良くなるためです。

 前に言いましたようにキリスト者は皆自分に与えられている使命をなしとげるための力を持っています。聖霊の宮になったからです。けど、非常にたいせつなのはこの事実を信ずること、そのために感謝することです。信仰のあらわれはいつも感謝することです。もし、どなたか「イエス様。私はあなたの救いを信じます。」と言ったとしても、その人は果たして救われているかどうか分からないと思います。けれど、もし救われたことを感謝しますと言うとちょっと違うことになります。感謝することはいつも信仰のあらわれです。ですから聖霊が我々に満ちあふれていることを感謝することは大切です。あなたがそれを感じても感じなくても感謝してください。

 弟子たちは、イエス様の弟子たちは、聖霊に満たされたのです。その結果は、聖書によると彼らが力強く証した、福音の宣べ伝えたと書いてあります。罪について世の人の目を開くために聖霊が与えられたのです。それを弟子たちは経験したのです。多くの人々は、その時、「兄弟たちよ。私たちはどうしたらいいのでしょうか。」と叫ぶようになったのです。彼らはただイエス様のことを宣べ伝えたのです。救いとはどういうものであるか、別に説明しようとしなかったのです。彼らはイエス様を宣べ伝えた結果、「兄弟たちよ、私たちはどうしたらいいの」という叫びだったのです。コリント第一の手紙の6章の19節20節もう一回ちょっと読みましょうか。みな暗記している箇所だと思います。たとえば聖書の一ヵ所を読むと時々助けになるのは、このことばは・・・
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

(引用者註:残念ながら最後まで録音されていないので尻切れとんぼになっており申し訳ない。でも随所に「あれっ、そうなのだ」と思わず膝をたたかざるを得ないところが出て来る。太字で示したところなどがそうである。今日は礼拝のあとの福音集会で2列王紀7:1〜2から激しく問われた。『主のことばを聞きなさい!』と。メッセンジャーは言われた。「理性」や「常識」は恵みにとって最大の障壁である。天地宇宙の造り主なるお方に虫けらのごとき我らが何の理由があって対抗しているのか。こどものように素直にみことばを受け取りなさい、と。感謝であった。GB[160]。本日のスパークスは1月12日分を『生ける神様との生きた交わり』という題名で訳出した。なお本日の1月29日分は『啓示に身を置きなさい』と題して2011.1.29に訳出済みである。http://stryasheep.blogspot.jp/併せてお読みいただければ幸いである。)

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