2017年1月5日木曜日

捨てるか用いるか

あなたの手にあるそれは何か。(出エジプト記4:2)

 それが主が神の栄光のために用いることができるものであるかないかどうかを正直に調べてみましょう。もしそうでないならそれを捨てることをすぐに躊躇しないでいましょう。それは私たちが手放したくないものであるかも知れません。しかし「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります(2歴代誌25:9)。」 そして、キリスト・イエスすなわち私たちの主を知るすぐれた知識を先ず一瞥すれば、私たちにとって得であったものを損とみなすことができるでしょう。

 けれども、もしそれが主が用いることのできるものであるなら、主は以前よりもはるかに私たちにそれを用いさせなさるでしょう。モーセは主が自分の手にある杖を用いさせようとなさっていることを少しも考えていませんでした。彼が杖を役立てなければならなかった最初の事柄はそれを地に投げ出し、それが驚くべき変化を経る様を見ることでした。

 この後、モーセはそれを取り上げるように命令されましたが、すでにそうすることは難しく恐ろしいことでした。しかし、それが再び彼の手の中で杖になった時、それはもはや以前の砂漠の羊飼いとしてあちらこちらを彷徨った単なる杖ではなくなっていました。その時以来、その杖は 「手にある神の杖(出エジプト記4:20)」となり、しるしとなり、神ご自身はそれによって奇しいことを行われるようになりました(詩篇78:12)。

主は命令された 「何か食べる物を上げなさい(マタイ14:16)」
五つのパンと二匹の小さな魚 飢えた群衆を養うそれがすべての 貯えでした
主は弟子たちが それ以上何も持っていないことを ご存知でした
そして 主は 彼らを 何もない退避所に 集められました
弟子たちは 主が 一切れ一切れ 与えられるたびに それを 与えました  
そこには 緑の草の上に 大きい者も 小さい者も
誰も彼もが 満たされるまで
弟子たちのものは 全然何もありませんでした
あるのは 主のもの 次々増し加わる栄光のみでした

主よ 私には あなたに十分お仕えする 力はありません
私ができるのは全部で 「半日の働き」です
けれども あなたが その増やされる力で 触れてくださり
私でさえも 不思議に 新しくしてください
五つのことばで 五千人を養わせ
あなたの力を 弱い一時間に帰す いのちにまで 及ぼしてください


※Godhold Beck(136)

『聖書とは何か』第五部[5]

 使徒行伝に書かれた福音は何と力強いものでありましょうか。このことは全世界に短期間のうちにイエス・キリストの福音として広まりました。彼らの語った福音の力はいかなるものだったのでしょう。五旬節におけるペテロの説教は3000人の魂を主に導いたのですが、このことを学んで見て分かることは、語られたみことばの半分は旧約聖書からの引用であったということです。

 ペテロの奉仕の土台は旧約聖書でした。使徒行伝3章21節に
このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

と、あります。そして、ペテロの書いた手紙を見ると旧約聖書におけるみことばの絶対的な確実さが彼の語った一つ一つの土台になっていることがわかります。ペテロ第一の手紙1章12節
彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。

16節
それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

2章6節
なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

3章10節から12節まで
「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」

と、あります。それからペテロ第二の手紙1章21節に
なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

と、あります。

 使徒たちの働いた実、すなわち効果を自分も持ちたいと思う者は、使徒たちの伝えた福音を伝えなければならないのです。初代教会全体の証しもまた同様に旧約聖書の完全な霊感を認めるものです。使徒行伝4章25節に
あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。

と、あります。

 今まで、私たちはマタイとヨハネ、そしてペテロについて考えて参りましたが、次にパウロについてちょっと考えてみたいと思います。パウロは旧約聖書の霊感を文字どおり信じたのでしょうか。パウロは旧約聖書に精通した学者であり、旧約聖書のもっとも深い事情を洞察した人でもありました。私たちは透徹した理性と徹底的な論理を持った人に、すなわちパウロに対して、彼が旧約聖書からのみことばをもって深く考えずに福音を宣べ伝えたというようなことを言うことができるでしょうか。決してそうではありません。パウロにとっては旧約聖書のどのみことばもほんとうに神のみことばでした。旧約聖書はパウロの福音の土台でした。使徒行伝24章の14節に
しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。

28章23節
そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。

と、あります。

引用者註:使徒たちがいかに旧約聖書を土台として福音を語ったか、私たちはこれらのベック兄のメッセージをとおして知らされます。私はかつて聖書の中に『聖書』が登場して来るのに面食らった覚えがあります。しかしその『聖書』とは『旧約聖書』のことでした。余りにも自明なことで、自らの不明を恥じますが、知らされて感謝なことです。)

0 件のコメント:

コメントを投稿