2017年1月22日日曜日

礼拝とは何か(上)

 キリスト者の使命についてご一緒に考えてみたいと思います。今言われましたように、何か形式的になればおしまいだと言えるのでないかと思うのであります。ああすべきである、こうすべきであると思うようになれば危険ではないかと思います。知らないうちに形式的になり、律法的になるからです。主なる神が考えておられることはもちろん一人でも多くの人々が救われることです。だから多くの人々は本物を得るためにキリスト教に入らなければならないと思っています。キリスト教の教えは最高のものであるから、神の教えであるから、だからキリスト教という宗教に入らないと駄目だと思う人は非常に多いのです。私のようにキリスト教の国で生まれ大きくなった人々は決してそうじゃないといつも言いたいのです。何があってもキリスト教に入らないで、イエス様を知ってもらいたいということなんです。

 キリスト教の国で生まれた人々は先ず幼児洗礼を受けます。生まれてから一週間以内洗礼を受けます。それによってクリスチャンになる。どうしてそのことをやるかと言うと、あとで強制的に献金しなくっちゃいけない。会社の方から直接国に渡さるるものなんですね。人間はいくら反対しても通じません。このようなまずい結果になれば結局刑務所(行き)です。どうしても払いたくなければやっぱり教会から離れなければならない。そのための勇気を持つ人は余りいないんです。 そしたら自分の葬式は誰がやるのか。そういう心配によって皆んな縛られてしまっているのです。非常に悲しいことなんです。

 イエス・キリストを信ずることとキリスト教に入ることとは全然違うものなんです。教会の会員になったから、洗礼を受けるようになったから、だから多くの人々は救われ得ないということは悲しい事実なんです。神の目的は結局人間はキリスト教という人間のつくった宗教に入ることではなく、真理を知ることです。イエス様との出会いによって罪の赦しを得ることです。自分は救われた、自分の過ちを赦されているのであり、私は永久的に生けるまことの神によって受け入れられている、この確信を得ることこそが神の切に望んでおられることですけど、でもそれだけではありません。救われた人々をとおして主は働こうと望んでおられます。主のご臨在が外にあらわされていくことこそが主の願い求めておられることです。他のことばで言いますならば、キリスト者のうちに宿りたもうイエス様、内住の主こそキリスト者の生まれ変わった証拠です。

 イエス様はキリスト者のうちに住んでおられると聖書全体は言っているのです。ですから、信ずる者は神の神殿とも聖霊の宮とも呼ばれているのです。人々は私たちの内にイエス様が住んでおられることに気づくはずなんです。そのように身を以てイエス様を証して始めて主の証し人と言えると思います。今兄弟のお読みになりました民数記の箇所(民数記8章14、16、24節)を見ると、このいわゆるレビ人についていろいろなこと書き記されていますけど、会見の幕屋で働き、契約の箱を担うつとめをしたレビ人について書き記されています。もう一回14節をお読み致します。
あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。

と書いてあります。そして、16節
彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。

と、あります。レビ人は全く主なる神にささげられていた者であり、一つ残らずすべてを神におささげしたのがいわゆるレビ人たちだったのです。すべてを主にささげ尽くしたこのレビ人こそ主のご栄光をあらわすことのできる模範の人々でした。この民数記暇があれば近いうちに、今週中読んでもいいと思うんですけど、非常にすばらしい本なんですけども、レビ人たちは、イスラエルの人たちが荒野を通って旅をした時、神の臨在をあらわすいわゆる契約の箱を担って歩いた人々はこのレビ人たちであったのです。そしてイスラエル人たちは臨在の雲の柱が上がった時、今までとどまっていた所から出発し雲に導かれ、雲が再びとどまったところで旅立ちもとどまったのです。彼らは神の臨在の雲がとどまった所には素直にそこにとどまりました。そこがどんなに醜い場所であっても、また見る目によくない場所であっても導きのままにとどまったんです。

 我々の場合はいったいどうなんでしょうか。自分の考えの赴くままに良い環境を選んでそこへ行くのでありましょうか。それとも主の導きのままに歩むのでありましょうか。実際のところ、私たちは生きているこの世はどこへ行っても荒野のようなものです。見た目に居心地の良さそうなところでも実際に住んでみれば、しばらく経つとそこも荒野であったことがもちろんわかります。私たちはレビ人と同じように主の御手のあるところ、主の臨在があらわれて行くのですから、導きのまま歩みたいものです。

 レビ記についていろいろなことが言えると思うのですが、今朝一つのことだけ触れたいと思うのですね。彼らはまことの神に対して礼拝する人々だったのです。礼拝することとは非常に大切なんです。礼拝する形式的なことがいろいろあるかもしれませんし、習慣になれば、もちろん形式的になればおしまいなんです。ヨハネ伝の4章の中で主なる神はまことの礼拝者を探しておられると書き記されていますが、よく読む箇所です。4章の23節ですね。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

とあります。礼拝とはいったいどういうことでしょうか。ひとことばで言いますと、父ならびに御子イエス様の素晴らしさ、偉大さを認め、いかに尊いお方であるかを心から言い表わすのが礼拝です。心の目で自らの神から離れ去って役に立たなくなっており、罪深い駄目な状態を見、それとともにあわれみ深い主イエス様の救いを心の目で見て見る時、礼拝をせざるを得なくなります。

 神の愛を、神の偉大さを知りながら礼拝をしないこととはもちろん罪であります。神の愛を、神の偉大さを知らない人々は、キリストに属さない人々は本当の意味で礼拝することができません。またイエス様を信じていない人々だけではなく、もうすでに救いにあずかっている信者も主の価値を完全に知ることは出来ません。神の偉大さを全く知ることには永遠の時を必要とするのではないでしょうか。もっともっと心の目が開かれ、主がどんなにすばらしく、偉大なお方であるか見させていただきたいものです。主の偉大さに心の目が開かれることは礼拝にとってもっとも必要なことです。言えることは主の偉大さがわかればわかるほど、まことの礼拝があり、礼拝すればするほど主の偉大さが見えて来るということです。礼拝する人は主なる神の隠れた新しいことを教えられます。主を見た人は、主の御前にひれ伏し、拝まざるを得ません。

 高く引き上げられ、すべての上に支配したもう主を見ることこそが大切です。そうすると私たちは心からなる礼拝をささげざるを得なくなるのです。

 我々の場合現実にどうなるのでしょうか。私たちの生活の真中に主に対するまことの礼拝がなされているのでありましょうか。もちろんはっきり言えることは日曜日の午前中だ礼拝する人々は本物ではない。我々の人生そのものは礼拝そのものとならなければならないのです。礼拝が第一の場所を占めているのでありましょうか。時々仕事が第一の場所を占め、その他の色々なことが礼拝に代わる時間を取り、礼拝はどこへか影をひそめてしまうというのが現実ではないでしょうか。私たちはなるほどあわれみによって救われたキリスト者としてこの世に生活していますけど、礼拝する者として毎日毎日生きているなのでありましょうか。歴代誌下の16章9節の中で
あまねく全地を見まわし、心を全うし、主を第一にする、礼拝する人々を探し求めておられる

と書き記されているのであります。神に対する礼拝は我々の生活の第一の場所を占め、礼拝が我々の全生活を支配していなければなりません。

(引用者註: 今日から三日間で聞き書きするものの音源は「ろばの子サーバー」のDVD#1 CD#19キリスト者の使命(1)である。形骸化したキリスト信仰は先ず礼拝から始まります。ベック兄が語られる「礼拝とはどのようなものか」聖書に登場する人物をとおして考えられているメッセージに耳を傾けたいものです。GB[153]。今日のスパークスの黙想http://stryasheep.blogspot.jp/はやはり2011年1月22日『麗しい王、遠くの国』という題名で掲載しています。したがって新訳としては1月3日の『復活の力』を掲載しました。)

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