2017年1月25日水曜日

無題(上)

ヨハネ5:28〜29、ヘブル9:27、黙示録20:11 の朗読

 この間一人の姉妹が真剣な顔で、もちろんほんとうのこと言われたんです。「私の悔い改めは足りない」と言われた。そういうこと別に言わなくても、当然でしょう。「私の悔い改めは十分です」と言う人はちょっとおかしい、盲にされていると言えないこともない。そのあとで姉妹は言ったんです。「私はほんとうにイエス様に愛されているのでしょうか」そう思うとちょっと大変ですね。なぜならば、それこそすべてのすべてではないでしょうか。どういうことがあっても、いい子でなくても愛されていることこそが覚えるべきであり、そのために毎日感謝すべきなのではないでしょうか。もちろん人間はそういうふうに考えるのは当然です。目に見える現実を見ると、やっぱり悩みます、苦しみます。

 昨日K兄の家で家庭集会があったんです。彼はちょっと証してくださったんです。「確かに辛い、どうすればいいかわからないけど、家族の一致が与えられた。」と言ったんです。いやーこれこそが金で買えないすばらしいものなのではないでしょうか。結局いろんなことで悩まなければ苦しまなければ、人間は真剣になろうとはしない。

 この間九州で一人の29歳になったばかりの奥さんと出会いまして、子ども二人います。病気は脳腫瘍です。手術できない。医者はもしかするとあと二月くらい普通の仕事できるかもしれないけれどそれでおしまいです。そういうことを聞くとやっぱり誰でもぺちゃんこになることは決まり。けどイエス様に頼ればやっぱりまた希望を持つことができる。そういう病気も決して偶然起きるものではない、天罰でもない。やっぱり愛されている証拠である。今わからなくても必ずいつかわかるようになります。

 今朝もM姉妹から手紙貰いまして、電話でもちょつとこないだ話したんです。病名はまだわからないし、けど医者は結局どうすればいいかわからないし・・・けど姉妹は「私はうれしくってしょうがない、イエス様はすごい、イエス様大好き、家族揃ってみんな一緒に祈っている喜びで一杯です」と言われたんです。結局、すべてを長い目で見ることこそが一番大切なのではないでしょうか。今読まれましたたとえばヘブル書の箇所を見ても「人間は一度死ぬことと、死後にはさばきを受けることが定まっている」と書かれています。そのことについてやっぱり考えるべきです。今若くっても元気であっても、いつまでその状態に置かれるかわからない。急にいっぺんに駄目になる可能性は十分あります。そしてイエス様は今読まれたヨハネ伝5章29節に「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」と、書き記されています。イエス様だけが肉体的に復活なさっただけではない。人間も肉体的に復活する。ですから、私たちは御代田の納骨堂は、意識して「待合室」という名前をつけたんです。

 復活されることとはもう決まり。死によってすべてが終わるのではない。今話した九州の若い奥さんの初めての質問は「死は終わりではないの?」という質問だったんです。終わりだったら、ちょっと大変なことです。絶望的です。けど決してそうではありません。死によってすべてが終わると思っている人々も、死後復活してさばきを受けなければならないと聖書ははっきり言っているのです。将来の裁き主とはイエス様です。ヨハネ伝5章の22節に
また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。

と書き記されています。将来の裁き主とは十字架の上で全人類のために救いの御業をなさったイエス様です。主を受けいれようとしたくなかった人々も、裁判官の前に出て責任を問われるようになります。つまりこの地上で主の提供されたものを拒み続けた者は御座の前に出て裁かれなければならないと聖書全体ははっきり言っているのです。

 私たちは口をふさがれた者となるか、あるいは心から主を賛美する者となるかのどちらかです。イエス様を救い主として受け入れる時には、イエス様はもはや裁き主ではない。弁護士になるのです。自分のわがままが赦され、イエス様を自分の救い主として受け入れ永遠のいのちを与えられている者だけが、喜びと希望をもって将来に向かうことができるのです。パウロは喜びをもって主イエスにある者は罪に定められることはない。初代教会の人々とは皆私たちは裁かれ得ない、もうすでに死からいのちに移されている。我々の国籍は天国だと喜びをもって証しすることができたのです。

 一つの質問は全然福音を聞いたことのなかった人々がいったいどのようにさばかれるかという質問です。たとえばイエス様の時代よりもずーっと前に生きていた人々は福音を知らないわけですが、そのような人々はいったいどうなるのでしょうか。この問いに対して聖書は次のように答えています。すなわち彼らは主なる神によって与えられる光によって、啓示によってさばかれるということです。ロマ書2章の12節です
律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。

と。パウロは律法について語っていますが、ここで「律法 」の代わりに「福音」ということばを置き換えればもっとよく当てはまります。すなわち福音を聞いた者は聞かなかった時よりもはるかに多くの責任を持つということです。イエス様の時代にイエス様の福音を拒み退けた者たちは昔のニネベの人たちによってさばかれるとイエス様は言われました。ルカ伝の11章の31節、32節を見るとわかります。
南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。

と、書かれています。またイエス様の時代にあって頭を下げたくい悔い改めたくなかった人々に対して次のように言いました。マタイ伝の11章21節22節です
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

もう一ヵ所。マタイ伝の10章の14節、15節
もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。

この箇所でイエス様ははっきりと裁きの時について語っておられます。そしてイエス様の福音を聞いた者が福音を知らない者よりもはるかに大きな責任を持っていることも明らかです。たとえばルカ伝の12章47節、48節
主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。

(引用者註:今日の聞き書きはろばの子サーバーDVD#1 CD#19 0252からのものであるが実は非常に意味のある聞き書きとなった。それは私たちの知人の母上が95歳で20日に逝去され、このお母さんに残念ながら私は福音を直接お届けできなかった。このお母さんに福音を伝えられなかった無念さと同時にこのお母さんの救いはどうなのかと考えさせられたからである。このメッセージはまさしくその疑問に直接答えているからである。今日の箇所では明快ではないが、さらに明日の分を引き続いて読んでいただくといかに聖書がそのこともキチンと述べているのかわかる。明日の項目も引き続きお読みいただきたい。[GB156]。今日のスパークスは新しく1月8日分『御霊をとおして証しする民』と題して訳した。今日の1月25日分は『上にあるものをう求めなさい』と2011.1.25に掲載している。引き続いて興味のある方はhttp://stryasheep.blogspot.jp/をご覧いただきたい。)

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