2012年12月16日日曜日

失われた羊を尋ねて(2)

2012年X'mas Decolation


福音はこれを除きました。わたしの思いは、何年も昔、回心する前のころにしばしばかえります。将来のことを考えるとき、どんなに暗く感じたことでしょう。どんなにしばしば死が恐ろしい怪物にみえたことでしょう。そして、それがどんなにしばしばその黒い影をわたしの生涯に投げかけたことでしょう。死がわたしのところに来る恐怖の時を思って、どんなにおののいたことでしょうか。わたしは結核のような、何か長びく病気にかかって死にたいと、どんなに願ったことでしょう。もし、そうなれば、死がいつやってくるかわかるからです。わたしはこのことをよく覚えています。

わたしの村では、古い教会堂の鐘を、亡くなった人の年の数だけ鳴らす習慣になっていました。その鐘の音は、ある時は十七、ある時は十八でした。またある時は、わたしと同じ歳の誰かの死を鳴らしていました。それはわたしに厳粛な印象を与えました。その時は、自分を臆病者だと感じました。わたしは冷たい死の手を思いました。未知の国へ行って、永遠の命をすごすように、送り出してもらうことも考えました。

わたしは、墓の中をのぞいて、寺男が棺のふたの上に土を投げかけているのを見たとき、”土は土に、灰は灰に、ちりはちりに”それはとむらいの鐘の音のようにわたしの魂に響きました。

しかし、今はすっかり変わりました。墓は恐ろしくなくなってしまいました。私は天国に向かって歩き続けているので、大声で叫ぶことができるのです。”おお、死よ、おまえのとげはどこにあるのか”そしてわたしは、カルバリから聞えてくる答を耳にします。”神の御子の御胸にのまれてしまった”彼はわたしのために、きっぱりと死からとげをとり去って、ご自身の胸に受けとめてくださいました。オオクマバチをとらえて、その針を抜きとってごらんなさい。もう、ハエほどにも恐ろしくありません。そのように死はとげを失いました。あの最後の敵はすでに征服されたのです。そして、わたしは、死をおしつぶされたいけにえのようにみることができます。今死が得ることができるのは、この古いアダムだけです。どうしたらそれを免れるのか心配しません。わたしは栄光のからだ、よみがえりのからだ、今よりもずっとすばらしいからだをいただくでしょう。

死が、わたしの立つ説教壇に忍びこんで、その氷のような手をわたしの心臓において鼓動をとめたとしましょう。そうすれば、わたしはさらにうるわしい世界によみがえって、主と共におるでしょう。福音は敵を友と変えてしまいました。死ぬ時はただイエスの御腕の中にはいり、永遠の休みの地に生まれる時だと考えることは、なんとすばらしいことでしょう、”死ぬこと”あの使徒は言っています、”それは益である”

彼らがわたしの主をヨセフの墓に横たえた時、死が墓地の上にすわっているのを誰か見たかも知れません。そうした情景が想像できます。そして、死は言っています。”私は彼をやっつけた。彼はわたしのいけにえだ。彼はよみがえりであり、いのちであると言ったが、今わたしの冷たい腕に抱かれている。彼は決して死ぬことはないと思ったが、この彼を見なさい。彼は私にささげものを払わねばならなかったのだ”。違います。栄光の朝、人の子は死のきずなを真っ二つに破って、征服者として墓からよみがえられました。”わたしは生きる故に”彼は叫ばれます。”あなたも生きるであろう”そうです。

「あなたも生きるであろう」—これがよい知らせでないでしょうか。おお、みなさん、福音に悪い知らせはありません。それは生きることを楽しくさせ、死ぬことを楽しくさせるのです。

もうひとつのわたしをなやませた恐ろしい敵は罪です。

(同書3〜5頁より引用)

0 件のコメント:

コメントを投稿