2012年12月17日月曜日

失われた羊を尋ねて(3)

寒くって寒くって開けないよー


わたしの子どものころからの罪や、あらゆるかくれた思い、あらゆるよこしまな望み、暗やみで行なったすべてのことが明るみに出され集められて、全世界に広げられたら、それはどんなに恐ろしいことかと思いました。しかし、神に感謝すべきことに、こうした考えは去ってしまいました。わたしの罪はすべてキリストの中に取り去られていると福音は告げています。神は愛の故にわたしのすべての罪をとり、その背のうしろに投げ捨ててくださいました。そこは罪に対して安全なところです。神は決して背を向けられません。いつも前進し続けられます。神は、罪がその背のうしろにおかれているなら、あなたの罪を決して見ようとされないでしょう。—それは、神ご自身のたとえのひとつです。サタンは、罪を見出すためには神のうしろに廻らなければなりません。それはどんなに遠く離れていることでしょう。もう一度帰ってくることができるでしょうか。

「東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる」

いくつかの罪ではありません。神は「すべて」の罪をとり去られるのです。あなたの罪を黒山のように積みあげて、考えることのできないような数になったとしましょう。その罪をひとつひとつ数えようとした時、わたしにひとつの聖句を引用させてください。その山は消え去ってしまいます。

「御子イエスの血が、すべての罪からわたしをきよめるのである」

しばらく前のことですが、アイルランドでひとりの先生が小さな少年に「神さまにできないことがあるでしょうか」と尋ねました。この小さな相手は答えたのです。「はい、神さまは、わたしの罪をキリストの血をとおして見ることができません」これこそ神がおできにならないことです。キリストの血は罪をおおいます。罪からのげれることができるということが、よい知らせではないでしょうか。

あなたは罪人のままでキリストのところにおいでなさい。そして、キリストの福音を受け入れるなら、あなたの罪はとり除かれます。あなたはそうするように、招かれているのです。いや、キリストはあなたがそうするように熱心に願っておられるのです。すべての罪を除きさること、キリストを受け入れ、キリストの義を罪の代わりに受け交換するように招かれているのです。これこそよい知らせではないでしょうか。

わたしをいつも非常になやませたもうひとつの敵があります。

さばき

わたしはしばしば、神の御前に呼び出される恐ろしい日のことを考えました。キリストが「わたしから離れなさい、のろわれた者よ」と言われる声を聞くのか、あるいは「あなたの主の喜びにはいりなさい」という声なのかわかりませんでした。そして、大きな白い王座の前に立つまで、誰も右手に行くのか、左手に行くのかわからないと思いました。しかし、このことはすでに定められているのだと福音は告げています。

”キリスト・イエスにある者は、もはや罪にさだめられることがない”

”よくよく”—このことばが聖書に使われている時、非常に重要なことが次に言われています。—”よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである”

そうです。今、わたしは罪のさばきに向かっているのではありません。それは未決定の問題ではないのです。神のみことばはそれを解決しています。キリストはわたしのゆえにさばかれ、わたしに代わって死なれました。そしてわたしは自由なのです。信じる者は”持っている”のです。

これこそよい知らせではないでしょうか。

( 同書5〜7頁より)

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