2023年7月7日金曜日

汝、誰の使節か

夏涼み 名も知らぬ花 新世界
 前回は「信濃追分」の駅頭の写真をご披露した。そのおり、その写真に不満足であると書いた。人為が勝っている、と。それは自然そのもの〈浅間山〉をとらえたいのに、私にはなぜか画面にあらわれた左の立板の文字、追分宿のちょうちんが気になった。

 この信濃追分には過去一度だけ降り立ち、一、二日過ごした記憶がある。おそらくそれは1980年代であろうと思う。こどもがたくさんいて、旅行などは贅沢で、ふるさと滋賀に帰る以外はとても無理だと決めてかかっていたころだ。しかし、いつまでもそういうわけにはいかないと、家族で泊まりがけで出かけた。その旅行先に選んだのが、信濃追分であった。堀辰雄の描く世界をこの目で確かめたいという思いが私にはあったが、果たしてこどもにはどうだったのだろう。

 駅から宿まで歩くのにすでに子どもたちが喘いでいたように思う。もう歩けないという子供を叱りながら、それでも宿に着いたときのさわやかさは今も感ずることができる。その翌日であろう、サイクリングに身を任せ、子どもたち各自もそれぞれ楽しんでくれたように記憶している。

 さて、中軽井沢駅で乗車されたトーゴーご夫妻との乗り合わせが私にとってどんな意味合いがあったか、少し触れてみたい。以下はこちらに帰ってから図書館でお借りして目にした文章である。

 それは美しい夏の朝だった。
 涼やかな微風が窓のカーテンを揺らし、近くの林から鳥たちが鳴き交わす声が聞こえていた。ひんやりした空気は甘い香りに満ち、その日の上天気を予感させた。輝かしい夏の日の始まり、今日も草原では、蜂や蝶たちが花々の蜜を求めて、忙しく飛び交うことだろう。
 七月二十三日、私たちは軽井沢の鹿島の森の小さな夏の家にいた。高原の夏は始まったばかりだった。
 蝶々や蜂たちに劣らず、私にとっても忙しい日になるはずだった。ちょっと目を離したらたちまち、帽子もかぶらずに外に飛び出してしまう双子の男の子を、麦わら帽子をひらひらさせながら追いかけなくてはならないのだから。
 子どもたちは五歳と半年。愛らしいワンパク盛りだった。仕事の都合をつけて東京からやってきた夫ともゆっくり話をしたかったし、二階の寝室で目をさました私は、まださめきらない頭の中で、一日のあれやこれやをぼんやりと考えていた。
 電話のベルの音が聞こえた。こんな朝早くどこからの電話だろう・・・。やがて階下で受話器がとられる。二言三言の話し声がしたあと、家の中がしんと静まったように感じられた。
 取りつがれた電話に出た私の耳に、なんともいいようのない、重くくぐもった母の声が聞こえた。生まれてはじめて聞くような母の声だった。
 「パパガ死ンダ」
 その瞬間、輝くばかりの夏の朝はひかりを失った。
 小鳥のさえずりも聞こえず、こぼれるほどに咲いていた花々ももう目に入らなかった。
 二階から下りてきた夫に、電話で聞いた言葉をそのまま繰り返して、私は棒のように立っていた。
 子どもたちの留守中の世話を頼み、いちばん早い汽車に乗った。戦争が終わって五年、列車事情の悪い時代だったが、その日は不思議に空いていて座席に座れたのをおぼえている。
 「いせ、大丈夫か?」
 窓際に腰掛けた私の顔を覗きこんで夫がそういい、私はこくんとうなずいて、「ダイジョウブ」とかすれたような声でやっと答えた。その言葉が、その日私が話したただ一言だったような気がする。
 昭和二十五年の夏、父の死の知らせが届いた日だった。
 その日の未明、太平洋戦争の開戦時の東条内閣と、終戦時の鈴木内閣の二度の外務大臣を務めた父、東郷茂徳は、A級戦犯として巣鴨プリズンに囚われの身のまま、だれに看取られることなく六十七歳の生涯を閉じていた。
        (『色無き花火』東郷いせ著 六興出版 1991年刊行)

 この文章は、東郷茂徳とドイツ人のエディータ(※)との間にひとり娘として生まれた「いせ」さんが「昭和の記憶」と題して語る冒頭の文章である。夏の軽井沢の姿が巧みに描かれており、それだけでなく、時空を越えて、たいせつな人を亡くした悲しみが私たちに伝わってくる。七十三年前の出来事だ。私が先日、中軽井沢駅でお見かけしたトーゴーさんは、文中に登場する「双子の男の子」「五歳」と書かれている人にちがいない。

 トーゴーさんが外交官であることはテレビなどで知っていた。しかし、三代続く外交官の家系で、国の要路にあって、それぞれに苦労を重ねて来られた方だとは、つゆ知らなかった。ただ目の前に現れたトーゴーご夫妻をお見かけして、その品格にひきつけられた。それは長い大使生活から自然と備えられた品格ではないだろうか。私は御代田に出かける前、『柏木義円』の関係で、新たな文献『最後の「日本人」朝河貫一の生涯』(阿部善雄著岩波現代文庫)を紐解いていたが、なかなか文意をつかむのに苦労していた。そのこともあって、実のところ、一日も早く春日部に戻りたいと考えていたのだ。

 ところが、家に帰って、読了していないその難解な新文献を読み進めるうちに、日米開戦前夜のアメリカ大使グルーと外相東郷茂徳の交渉・宮中への参内の話が出てきた(同書253頁以下)。まさかあのトーゴーさんのお祖父さんのことだとは、そう思って読み進めるうちに、それまで難解と思っていたこの文献もずいぶんと身近なものに変えられただから不思議だ。それと同時に、一連の御代田行きもこのような導きがあってのことだったのかと改めて思わされた。

 それにしても一人の人間の存在は大きい。ましてや神の子であり人の子であったイエス・キリストの存在は大きい。その光を反射するキリスト者は神の国の大使としてあだやおろそかにこの人生を歩んではならないと思わされた。

※エディータは最初ドイツ人建築家ゲオルク・ド・ラランドと結婚し、五人の子供をさずかったが、ゲオルクが急死し、そののち東郷茂徳とベルリンで知り合い結婚に導かれた。ゲオルクの作品としては神戸オリエンタル・ホテルはじめいくつかの名建築が明治の初めから大正にかけて存在する。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。(新約聖書 2コリント5章17節〜20節)

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