2015年10月22日木曜日

聖書と小説


 行きつけの図書館からリクエスト本が入りましたと連絡があった。その図書館の方針だろうか、書名は明記していなかった。希望した本は小熊氏の今評判の本だったが、随分早く私の番が来たと思い、喜んで図書館に赴いた。ところが受け取った本は『終戦のマグノリア』と言う私の見覚えのない題名の小説だった。思わず、「この本は私のリクエストした本ではないです。あれー、岩波新書でなかったですか?」と問うた。係の方は怪訝そうに、「いえ、九月二十六日に予約されました本ですよ。あと一冊はまだ来ていませんが、新書ではないですよ」と言われた。

 私の頭はますます混乱した。リクエストしていない本が私の本だと言われている。係の方がうそを言われるはずがない。手許に取り、中身をパラパラめくってみたが、どう考えても私がリクエストした本とは思えなかったが、ここは先方の手前、借りるしかないと思い、持ち帰った。 最初からして、私には中々入り込むのがむつかしい本であった。しかし、作中『木蓮文書』なるものが紹介され、その文書が終戦工作の委細を記したもので、官憲とのせめぎ合いの末結局破れるあたりを読むに及んで、おぼろげながら、新聞の読書欄※で紹介があり、矢も盾もなく、ネットで予約したことを微かに思い出した。(※http://89865721.at.webry.info/201509/article_3.html

 予約した当時はまだ安保法案の国会での採決の余塵もさめやらぬ時であった。鬱屈した思いでこの本を予約したに違いない。しかしいつの間にか自分の脳裏から消え去っていた。だから、この推理小説もどきの、不思議な本との出会いをかかえながら、昨日一日がかりで、家の手伝いもせず、読み切った。

 小説は出だしからして、不思議な出来事が次々起こる正真正銘の推理小説であった。考えてみると、推理小説を読むのは高校一年の時に多岐川恭という作家のものを読んだ記憶があるだけでそれ以来であった。漱石の『明暗』はこれまで三、四回は読んでいる。何日か前、その『明暗』が読んでみたくなり、途中まで読み、新たな感慨を持って読み始めたばかりであった。漱石の作品には生活感覚がある、たとえば台所の後始末をする茶碗の音すら聞こえる気がするし、それは私の中の生活時間と完全にマッチしている。

 それにくらべて『終戦のマグノリア』の舞台は私にとってはやや高級な生活感覚のある世界が舞台であった。お屋敷が舞台であり、そこには二人ほどの家司が住み込み、家族の食事や庭の世話などをする裕福な家という設定であったからである。驚いたのは、その家にニューヨークから甥としてやってきた篠井恭一という男が、実は全く別人の柏原遙であったことが三百数頁にわたる作品の最終段階で明らかにされるというサスペンスであった。

 その上、この小説のプロットは、終戦工作を行なう人物の子孫がアメリカ大統領予備選挙の民主党の副大統領候補であるという大変な日米がらみの、話となって展開するし、個人的には屋敷の女主人悠花(ゆうか)が見かけは丈夫に見えるが「進行性筋ジストロフィー」の病を発症しており、秘かに二人の子ども(中学生と高校生)の成長のために尽くしている一部始終が終末ではじめて明らかにされる。

 小説という表現手段を用いて人間の内側に宿る様々な葛藤が何人もの登場人物を通して明らかにされていく。そのような中で次のセリフは作中の人物の言葉に仮託して伝えるひょっとしてこの作者の本音の一部のような気がした。それは女主人悠花がドイツにいる夫静雄と離婚を決意して長女の菜々花に説明し、会話を交わす場面だ。

 「あなた、ハリール・ジプラーンの『結婚について』という詩、知ってる?」
 ママは目を細めて、水平線を見つめながらいった。
 「知らない。結婚なんかするつもりないし」
 「レバノンの有名な詩人なの。結婚する若い二人に贈った詩でね、そのなかにこんな一節があるのよ。『愛しあっていなさい。しかし、愛が足枷にならないように』『おたがいの杯を満たしあいなさい。しかし、同じひとつの杯からは飲まないように』『お互いに心を与えあいなさい。しかし、自分を預けきってしまわないように』・・・こういうフレーズがいくつも続く詩なんだけれど、わかるでしょ? 最良のパートナー同士はもたれあったり、おたがいの欠けたところを埋めあったりはしないの」
 (『終戦のマグノリア』戸松淳矩著 東京創元社339頁より引用)

 長く、複雑なストリー性を持つ小説は読者もまたそれぞれの思いを仮託して読み継いでいくのでないか。私はこの小説に接する二日前の日曜日午後、天城山からの帰り道小田原で途中下車し、家内と一緒に昨年夫を亡くしたばかりの知人と出会った。その交わりの中で、その方は、夫が結婚するときも、結婚してからも死ぬまで、自分のこと(つまり妻の素性)は一切聞かなかったと言われた。そこには、それほど夫は私のことに無関心だったという半ば恨みがましい思いが表出されているかのようだった。しかし、私はそのことばを聞いて逆に痛く感動させられた。それは亡くなったご主人が無条件にその方を愛され、その愛はイエス様が私たちに示される愛の態度と全く同じだと思ったからである。そのことを率直に申しあげた。その方もハッとされたようであった。だからこの作品のこの場面のセリフに注目せざるを得なかった。

 聖書を日頃読み慣れている者にとって、何と小説はフィクションに満ちているものかと思う。聖書をご存知ない方にとって、聖書もまたフィクションだと思われるかも知れない。しかし、聖書はこれまで何千年も様々な人々に読み継がれた真実なノンフィクションの書である。聖書を通して、人間の描いた小説はその真価があぶり出されるように思えてならない。難しい世相の中でフィクションとは言え、作者が懸命に昭和と平成という時代の真実をノンフィクションばりに描こうとされたその熱意に敬意を表したいが、根底にある人間観のちがいは作者と私とでは上に述べたように大いに異なる。とすれば、時代状況の見方も異なるのでないか。そんなことも考えさせられた。

主は遠くから、私に現われた。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」(エレミヤ31・3)

(一昨日火曜日、二紀展に出品されている方の絵を見に、国立新美術館に行った。生憎その日は休館日であった。ところが、その界隈をうろついていたら、この建物に出会った。その室内の展示の案内のポスターであろうか、その中の包括ディレクターに別の知人の名前を見つけてびっくりした。偶然は一つとしてないことを思い、記念に撮影したのが上の写真である。)

2 件のコメント:

  1. こちらのブログを発見しましたので、さっそく読ませて頂きました。拙ブログに感想(と言うほどのものではありませんが)を載せておきましたので、よろしかったらお訪ね下さい。作者としては、丁寧に読んで頂いたうえ、貴重な視点を示して頂いたことに深く感謝いたします。

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  2. つい最近まで戸松さんがコメントしていてくださるとは知りませんでした。私の稚拙な読み方に最大限好意を持って受け取っていただいたことを心より感謝申しあげます。また改めてじっくり読ませていただきます。

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