2015年12月21日月曜日

犬も歩けば棒に当たる

 思いをば 字を連ねる 喜びよ 時経つままに 媼語りき 

 郵便ポストは近くに三ヵ所。5、6分の距離だ。本局は少し離れているが、20分ほど歩けばたどり着く。散歩にはいい距離だ。しかし、このところ寒くなって来て、余り遠くまで行きたくない。ために近くを利用した。三ヵ所のうちどれにするかは自由だが、それぞれ集荷時間は異なる。「エーィッ、儘(まま)よ」とばかりに、普段余り行かないところを今日は選んだ。ところが、ポストに近づくと同時に郵便局の赤い車が向こう側から集荷に来た。こちらはお客様、投函するのを見届けるかのように丁寧に礼をされた。グッドタイミングだった。一体何時に集荷に来られるんだろうとポストの横掲示を見たら、15時38分ごろと明記してあった。腕時計を確かめてみるとまさしくその時間だった。一分でも遅かったら、手紙は暗いポスト内で一晩過ごすところだった。今更ラブレターではないので少々遅れても、どうと言うことはないが、早く届けたいのは人情ではないか。

 私は、一般に外出する先で、思わぬ人と遭遇することが多い。それも大体がグッドタイミングである。しかも一度や二度ではないので、外出し帰宅するや早々、私の口から出ることばの一つに、「今日、誰と会ったか、わかる?」というなぞかけがある。これには私よりはるかに外に出る機会の多い家内の方が舌を巻く。犬も歩けば棒に当たると言うが、比較的人に会う確率が高い私は何と言えばいいのだろうか。私は犬なのだろうか?犬は犬でもどんな犬なのか、家内と二人で分析をするが、結論が出ない。ただ人一倍、私が人を見分ける力を主からいただいているところにあるようだと言うのが当面の互いの結論であった。つい先だっても、銀行でお金を下ろし、いったん左側に自転車を振り向けながら、思わず別の用事を思い出し、右側に振り向けた途端に向こう側からやってきた目深に帽子をかぶった方とすれ違った。

 紛れもない、K氏であった。K氏とは数年来同じ町にいながら、引っ越しされたこともあり、またお忙しい方であったのでお会いすることはなかった。声をかけたら、先方も気づかれ、「オッ」とばかりに自転車を脇に差し置いて道路の端で互いに立ち話を始めてしまった。K氏の近況と数年前に出版された本の事などをお伺いした。昨年の四月からは慣れないパソコンの練習を兼ね、週一回程度ブログをとおして雑感を書いているという話もされた。何十年も前のこと、初対面の際、私の卒論のテーマとK氏の学問領域が重なるところがあり、互いに興味関心を覚えたものだ。それ以来お会いしたのは数えるほどしかない。その方と路上でお会いしたのだ。

 その数日後、K氏の御母堂が103歳で召されたことを知った。早速、新しいK氏のお宅を探し弔問に出かけた。御母堂は100歳にしてイエス様が第一と言われるようなったとは、K氏の奥様からお聞きし驚かされたことだが、大変な生命力のあるお方だった。もし数日前の出会いがなかったら、このように即刻お訪ねする気にもならなかったかもしれない。しかし、それだけでなくその後数日足らずのある日、郵便局の窓口で切手を買っていたら、隣の方から肩を叩かれた。誰かと振り向けば、当のK氏であった。御母堂の召天のため、急遽喪中の葉書を作成し投函に来られたということだった。この場合はK氏が私を見当てられたのだ。少し年来の謎が解けたように思う。なぜなら、K氏は大学の先生で、私は高校の教師、ひょっとすると教師稼業が人様を識別する力を与えるのかも知れないと思うたからである。

 12月になってから勘定してみたら、私はこのK氏をふくめ、すでに数名の方々と路上やスーパーや図書館でお会いしていた。この他、私にとってもっとも出会いの多い稼ぎどころの場所は何と言っても電車内である。今回は10月、11月 の新幹線内での劇的な出会いがあったせいか、週一回吉祥寺へ出かける電車内でも不思議と出会いはない。しかし、結局のところ、このようにして、今年もかつてお交わりを親しくいただいた方々とお出会いすることができたが、これは、一重に、本来寂しがりやの私を良く知っておられる主なる神様が、様々に過去出会った方々を忘れないようにと出会わせてくださった摂理にあるのでなないかとも思う。

 考えてみたら、今年は私の干支の「羊」の年であった。私はまぎれもなく犬でなく、羊である。羊は羊飼いに飼われて初めて一人前だ。それゆえ羊が当たるのは決して「棒」ではない。いつも牧草を羊飼いによって与えられているからだ。その羊が同じ羊と出会って飼い主をあがめればこれほど幸いなことはない。もっともっと多くの羊に会いたい。私が今年新しく知遇を得た方はご自身のことを親鸞にあやかって「愚石」と称される。私は飼い主イエス様に導かれるstraysheepだと思い、数年前からこのブログ(泉あるところ1、Ⅱ、Ⅲ)を展開しているが、語呂がよくないことを承知で、最近その方の真似をして「迷羊」と名乗っている。羊年も残り少なくなった。昨日お交わりできた老婦人は孤独の中、字を書くことにより励ましを得ておられる。そこに出会いの根源のお方を一筆「イエス様」と書き込まれた。私もまた彼女のごとく、羊飼いから目を離さず生きたいものだ。

主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。(エレミヤ31・3) 

0 件のコメント:

コメントを投稿