2015年11月2日月曜日

召された友のこと(尊い一語)(上)


 様々な一語がある。有名なのは「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、地球の全表面は変っていただろう。」言わずと知れた、パスカルの警句だ。しかし、私たちは、というのは家内と私のことだが、ここ数週間、学生時代から親交のあった友達が家内宛に寄越した一枚の葉書に記されていた言葉に魅せられている。

 それは10月5日の消印のある、「主は生きておられる」という冊子を家内がお送りしたお礼を兼ね、近況を記された葉書の末尾にあった文句である。

 遅かったけど、私は生きたイエス様に会った。貴女のお陰です。

 その葉書を受け取ってしばらくして、寒くなり衣替えの準備をするため、家内が押し入れを整理するうちに、一冊の古ぼけたサイン帳を見つけた。それは1966年当時のものだから、かれこれ50年経ったものだ。当時女子学生の間では卒業記念にお互いに書き合う習慣があったのだろう。嫁入りし、あっちこっち住まいが変ったにもかかわらず、未だに残っていたのは、普段はすっかり忘れてはいるが、それなりに大切にしていた心の宝物だったにちがいない。10数人の乙女がそれぞれ書き連ねているサイン帳の冒頭に同じ方が家内に寄せた次の文句があった。

 何処までも、何時までも、貴女と共に。そして、貴女が其処にいる限り、私は貴女について行く。S41.2.22

 短いが、この言葉の重大な意味を量りかねて、私と家内は、彼女は皆んなのサイン帳に多分同じ文面を書き連ねたのだろうと結論づけた。

 ところが、先週の月曜日10月26日に、近江八幡の主にある兄弟から、その彼女が心筋梗塞で突然召されたことを知らされた。私たちは呆然とした。特に家内は「どうして」「来週の近江八幡喜びの集い(11月7日〜8日)で会うことを楽しみにしていたのに」「どうして」と叫んでいた。

 私はここ10数年、3ヵ月に一回のペースで近江八幡の礼拝に出席しているが、遠方故に、大抵は一人で出席し、家に帰ってから、集会の様子を家内にも話すのを常としていた。その折り、家内の学友である彼女が特にここ一年ほどの間にすっかり変ったことを報告していた。彼女がそれまでの長い信仰生活の果てに最近「私は長い間眠っていました。今目ざめました」と皆さんの前で言われたとお聞きしていたからである。

 確かに彼女はもともと天女とも言うべきパーソナリティーの持ち主であったが、主イエス様の救いを自己のものとしてからの彼女の一挙手一投足はさらに磨きがかかり、座談のおりなど、みんなの心が自由になり、心置きなく互いの胸襟を開くことの出来る一服の清涼剤の如き感がした。

 8月23日、私は近江八幡の礼拝に出席し、帰りは私をふくめ三人の者が車で安土城見学というので送っていただいた。その中に彼女もいた。その後、お一人は安土駅から茨木に帰られ、彼女と私は一緒に彦根まで帰って来た。彦根に降り着いてからは、アルプラザの駐車場に停めてあるという彼女の車で、彦根市内の別の友人をともに訪ねた。その時、少し体がフラフラしているようで車の運転は大丈夫なのかなと一瞬思うことがあったが、そんなに気にはとめていなかった。振り返って見ると後にも先にも彼女と一対一で行動を共にしたことはこれが最初で最後になってしまった。

 10月28日 、葬儀があった。私たちも急遽新幹線で米原まで直行し出席した。その前日27日、こちらでの知人の葬儀を終えたばかりであったが、取るものも取りあえずという形での出席になった。家内は弔辞を読み、茨木の方は終りの祈りをしてくださった。そこには大きな祝福が待っていた。浄土真宗の中で生まれ育まれたご主人は奥様の信仰を尊重され、遺族代表のご挨拶の中で何度も

 キリストでやって良かった

と言われた。真実は短い一語に尽きる。

すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ9・2)

(写真は、火葬場に移動する際にマイクロバスから眺めた湖北の佇まい。雲に隠れているのは伊吹山。)

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