2018年9月7日金曜日

優先席の妙(中)

ふるさとの玄関引き戸(左側半分がガラスが台風のため破損)
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103・1〜2)

 東京から熱海まで快速アクティーの所要時間は1時間半ほどである。そのようにして優先席でたまたま相席になった私たちはとうとうその全時間を一緒に過ごすこととなった。双方とも最初は全くそのようにお話をしてお交わりする意志はなかったと思う。お互いに全く素性も何もわからない同士であり、まして異性同士であるから当然と言えば当然だ。

 ところが、豈図らんや、意外なところから双方の話が噛み合い始めたのである。そもそもそのご婦人は熱海での大学の同窓会出席のため、東北から上京され東京を経由しアクティに乗られた。私は故郷の家が台風で大変な目にあっているので、関西へと帰る旅路であった。家の管理がままならぬことをその理由をふくめて語っていた。それは私たち夫婦が結婚する時、両親に反対されたため、中々故郷に帰る機会が縁遠くなってしまい、とうとう両親も他界し今やこの歳になったのだと話していた。

 そのご婦人はなぜ私たちの両親が結婚に反対したかを聞きたがられた。私は正直にありのままを話した。それは私たちが仏教徒の家に産まれながら、主イエスを信じてしまったことに端を発し、家にキリスト教を持ち込むなと言う反対であった、と説明した。

 ところが、そのご婦人はそのことをきっかけに御自身が日曜学校に通ったことや、幼稚園も、小学校も中学校も宣教師が設立した学校に通ったことを思い出されたようだった。戦後間もなく、アメリカからお見えになったその女性宣教師は学校、医療事業、酪農とキリスト教精神に基づく活動を行ない、母が家は仏教であるが、仏教では精神性が養えない、どうしてもキリスト教が必要と考え、自分だけでなく兄妹四人全員が同じコースを歩まされたと言われた。

 その頃は一日の朝の始まり、また食事のとき、また寝るときと四六時中、神様への「祈りの生活」があり、毎日感謝し、一日の終わりは反省の時であった。あのような生活はもう今ではすっかりなくなってしまっている。あの精神性は母が行かせてくれなかったら不可能であった。そして、そう言えば、自分は三人の子供を全部公立に進ませた。母のようなことは考えなかったのだなと感慨深げに述懐された。

 私はお聞きしながら、その女性宣教師の生き方に瞑目させられ、さぞかし「あなたはその宣教師に愛されたでしょうね」と申し上げると、「そうじゃないのですよ。私はしょっちゅう叱られていたのです。もっとも私は兄たちと違って落ち着きがなかったからです。」と恥じらいながらも話してくださった。その学校は少人数教育で十人足らずだという。私は勝手に『二十四の瞳』を思い出しながら、その方の幼き頃を想像して聞くことに熱中した。

 そう言えば、私は今も余技にお習字をやっていますが、その宣教師の建てられたミッションの学校での教育の賜物なんですねと改めてその宣教師との出会いを感謝された。私は本来はその席でゆっくり昼飯を食べるつもりでいたが、とうとうあきらめ、そのご婦人から聞かされる話に魅了されっぱなしであった。熱海でお別れする時、お互いに氏名を交換しあった。私の名前をいい覚えやすい名前ですねと言ってくださった。私にもそのご婦人の名前はそれに劣らず覚えやすかった。でも私は口に出さず、心にお名前を銘記した。その方は1949年生まれ、私は1943年生まれであった。

 関西へ暗い気持ちで長時間列車を乗り継いでの「青春十八切符」を使用しての帰省は最初気が重かった。でも、こんな素晴らしい出会いがあるのはきっと何か意味があるのだと思った。

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