2018年12月1日土曜日

クリスチャンの希望(6)


わたし、イエスはみ使いを遣わして、諸教会についてこれらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。(黙示22・16)

 キリストの再臨に二段階のあることは、すでに繰り返して書きました。すなわち教会のための「空中携挙」と世に対する「地上顕現」との区別であります。このことがはっきりしないと、聖書にある「主の日」も「キリストの日」も同じように思い、混雑を来します。(聖書はすべてクリスチャンのために書かれたものですが、クリスチャンについてすべて書かれてあるというのではありません。真理のことばを正しく区分することが大切であります。)

 さて「主の日」のことは、テサロニケ人への第一の手紙第5章に書かれてあります。「あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る」(2、3節)このことは主イエスも「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであろう・・・人の子が現われる日も、ちょうどそれと同様であろう」(ルカ17・24、30)とおっしゃっています。この「主の日」とは主が力をあらわしなさる時です。いまは人間が勝手放題なことをしていますが、ついに「主の日」が来ます。

 主の日(エホバの日)という語は旧約にしばしば見られます。その一例としてヨエル書をあげましょう。「ああ、その日はわざわいだ、主の日は近く、全能者からの滅びのように来るからである」「国の民はみな、ふるいわななけ、主の日が来るからである」「主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう」「主の日がさばきの谷に近い」(1・15、2・1、11、3・14)このように主の日の来ることは、この世にとって恐ろしいわざわいであり、しかも突然で、ちょうど盗人が夜来るようにきます。

 ところがこの「主の日」を「キリストの日」とごっちゃにして、主の日が教会に臨むように思う人があります。そのためにおそれを持ちます。しかし主イエスが新郎として、新婦なる教会をむかえにおいでになるのと、盗人が夜突然やって来るのとは大変なちがいです。主は貴い御血で教会をご自身のものとされました。その愛するものを御許に集めるためにおいでになる日は、主の日ではありません。さきに記しましたテサロニケ人への第一の手紙第5章の「主の日」のことは、同じ手紙の第4章のおわりに記されている空中携挙のあとに書かれてあるのです。第5章の「主の日」の前に、教会はすでに天にあげられて主と共にいるのです。

 さらに第5章の2、3節につづいて「しかし兄弟たちよ(信者に対して)、あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日(主の日)が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。あなたがたはみな光の子であり昼の子なのである。・・・神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたのである」と書いてあります。きわめてはっきりしているではありませんか。

 次に「キリストの日」というのは、コリント人への第一の手紙第1章8節に「主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう」とあります。またピリピ人への手紙第2章16節に「キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだでなかったと誇ることができる」と使徒パウロは書いています。しかも彼が、この世を去る前に「今や義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けてくださるであろう」(第二テモテ4・8)と記しています。「キリストの日」は信者によっては、その信仰のおこないの報いをたまわるときであります。このみことばはわたしたちに責任を告げ、その良心にいましめをあたえます。サタンの支配しているこの世にならわず、主の権威によろこんでしたがい、主につかえて、キリストの日に冠をいただくのです。ああ何と光栄ある日ではありませんか。

 なお「空中携挙」と「地上顕現」との区別をあきらかにするために、次のことを学びましょう。新約のおわりの黙示録第22章16節に「わたしは輝く明けの明星である」と主イエスは教会にご自身を示していられます。ところが旧約のおわりのマラキ書第4章2節には「わが名を恐れるあなたがた(ユダヤ人の忠実なのこりの人たち)には、義の太陽がのぼり・・・」とあります。これはキリストが地上にあらわれなさる時は、すなわち主の日で、この暗黒の世が光にてらされ、ユダヤ人はこの義の太陽ののぼるのをよろこびます。しかし教会は、それよりさきに、主が空中まで迎えに来てくださるのを暗黒の世にまっているのです。日の出の前に、あけの明星のでるのをまっているのです。教会は義の太陽のあらわれるときに、栄光を共にしますが、世の明けぬ前にあらわれる明星をまつのです。

  一、こいしたえる目をあげ
      あけの明星いずるまつ
    いこう(威光)もて日のてるまえに
      きたもう見るうれしさよ
  二、やみよ(闇夜)とおしなぐさめし
      あいのみかおあおぎみて
    ささやくをよろこびし
      よくしれるみこえきかん
  三、まのあたりみんみさかえ
      みちたれるあいはいかに
    みまえにうとうハレルヤ
      ときわのほめごえなり

(『クリスチャンの希望』山中為三著27〜32頁より引用)

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