2018年7月6日金曜日

蜜の一滴であろうとはつゆ知らず

谷口幸三郎 展 『こどもの絵』 西荻・数寄和
わたしは傷つけ、またいやす(申命記32・39)

 みなさん、恩寵があなた方とともにありますように! アァメン。私は、いま、あなた方の目の前から連れ去られて囚われの身になっているので、あなた方の徳をすすめて信仰や聖潔をさらに築き上げるために、あなた方を守るよう、神から課せられた私の務めを果たすことができない。だが、私の魂が父親らしい心遣いをもってあなた方の魂の永遠の幸福を願い求めていることは、みなさまにもお判りであろう。私は、以前と同じように、いまもう一度、セニルとヘルモンの山頂からあなた方を見守るとともに、さらにいまは、「獅子のほら穴、ひょうの山」(雅歌4・8)から見守って、あなた方が無事に目指す港へつくよう心から願っている。

 あなた方のことを思うたびに私は神に感謝している。私は荒野で獅子の歯にくわえられている時でさえ、神が溢れるほどの信仰と愛とをもって、あなた方に授けたもうた救い主キリストの恩寵と憐憫と知識と、御子のうちに父なる神をさらに深く知り親しもうとしているあなた方の飢えと渇きとを見て嬉しく思っている。あなた方の心の優しさ、罪に対する恐れおののき、そして神の前でも人々の前でも真面目で聖い態度を持っていることなども私にとって大きな慰めである。「あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです」(1テサロニケ2・20)

 私は獅子の屍から採った蜜の一滴を、ここに封じて、あなた方におくる(士師記14・5〜8)。私もそれをなめて、たいへん元気づいた。(試練は、はじめて出会った時には、サムソンに向かってほえかかった獅子のようなものだが、それに打ち勝ってから、もう一度見直すと、その中にみつばちの巣があるのに気づく。)

ペリシテ人たちには私の言う意味はわかるまい。それは、そもそもの初めから、今でもなお、私の魂に対する神のわざに関することであって、あなた方にもお判りのように、私は幾度も打ち倒されてはまた起き上がったのである。というのは、神が私を傷つけ給い、そしてその御手で私を癒し給うたからである。聖書の中のイザヤ書第38章19節には「父は子らにあなたのまことについて知らせます」と書かれている。しかり、このゆえに、私はシナイで長い間横たわり(レビ記4・10〜11)焔と雲と暗黒とをみて、「我が世にあらん限りはエホバを畏れ、そのなし給える奇しきみわざを子孫に語り伝え」たいものだと思った(詩篇78・3〜5)。

(『罪人らの首長に恩寵溢る(キリストにおける神の広大な御恵みが、その貧しいしもべジョン・バンヤンに与えられた短い物語)』バンヤン著小野武雄訳 新教出版社1951年版13〜14頁より引用。一部新改訳版の聖書に変えたところがあり、また文中の「試練」は原文は「誘惑」だが、あえて昨日の柳田氏にならって「試練」に置き換えた。これはバンヤンが入獄中執筆したもので、その冒頭の箇所である。1666年にイギリスで発行された。名誉革命の2年前である。青字の部分を柳田氏は『ペテロの手紙の研究』の末尾の方で、「苦難」について説明するために引用されていたので掲載してみた。)

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