2016年7月17日日曜日

壮大な喜びの一瞥

レタス畑 浅間サンライン道路沿い

私は眠っていましたが、心はさめていました。戸をたたいている愛する方の声。「わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。汚れのないものよ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」(雅歌5:2) 

 それは十字架上で「あなたのために」孤独な叫びを発せられた主イエス様の文字どおりの声だった。そしてそれはあなたに対して将来「さあ、わたしの父に祝福された人たち(マタイ25:34)。」と言われる主ご自身のまさしくその声でもあろう。そしてその同じやさしい栄光ある声がすでに歌われたのであり、さらに将来あなたのために歌われるものとなろう。


 私が思うに、主は私たちのために歌を聖別され、その歌をとこしえに美しい聖なるものとされた。その時主ご自身は、私たちのために苦しみを受けるために出発する前に「賛美の歌(マタイ26:30)」をまさしく最後のものとして歌われた。しかしそれが主の最後の歌ではなかった。「あなたの神、主は、・・・高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる(ゼパニヤ3:17)。」

 そして 、主が「あなたのために」あるいは「あなたのことを」歌われるだけでなく、あなたとともに歌われる時がやって来ている。主は言われる、わたしは歌うと。「教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう(ヘブル2:12)。」さあ、これは何という喜びの壮大なる一瞥となろうか。

 「イエス様御自身が兄弟たちの賛美の導き手となられ」、私たち自身は単にそのような合唱にはいるだけでなく、そのような方、導き手と一緒に讃美するのだ。 もし「イエス様のために賛美すること」がそれほどのよろこびであるなら、この「イエス様と一緒に賛美すること」とは何という喜びであろうか。確かにこれ以降、賛美が聖なることとなるのは当然であろう。

とうとう時はやって来た 
しかし彼らが恐怖に会う以前
しかしもう一回 
彼らの声は主の声と調和する
主の声は以前とこしえに誰にも
歌われなかったように歌われた

なぜ彼らはそのことに関して
ダラダラするのか
なぜこのようにその声が延びるのか
ああ 最後だった 
今やその不思議な儀式張った歌は終わった

そして彼らは出発する 
その歌は終ったが
薔薇の葉っぱのように未だに
その香りが消え去らない 
その柔らかな低いこだまが震える
多くのたましいをとおして
主に対する新しい輝く賛美の旋律が目ざめた
主は十字架の前夜に 
最後の美しい賛美歌をよみがえらされた

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-17-a-magnificent-glimpse-of-joy/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97363です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(6)

 リジーは私のところに来て、深刻なふうだった。そして言った。「メリマン博士がすぐこられるからね」何と感じのいい名前で、感じのいいお医者さんであろうか。お医者さんの診断が終り、リジーとお手伝いさんが来て私を毛布に包み正真正銘のCats' Galleryを通って運んで行った。ベーズのドアーが開き、私は奥の部屋、もっとも白いベッドの中に入れられた。そこに私はいなくなった級友たちを見た。それが猩紅熱病院への愉快な入院の始まりとなった。
 記憶が続く限り私は次のことは決して忘れることはないだろう。一時間経って、私の尊敬するやさしいテード夫人がおいしい冷たいラズベリーのビネガーと水をタンブラーに入れて入って来られた。夫人は私の側に座って非常にやさしく話してくださった。そして多くはないが尋ねられた。「かわいいマライアは主イエス様を信じているの」と。ああ、悲しいかな、私は「はい」と答えたのだ。それは突然でもなく申し訳の立たない「はい」ではなかった。私は何日間か頭の中で考えていた。「もしテード夫人が私にまたあなたは信じているの」と尋ねられたら、はいと言おう。夫人は喜ばせることができるから」
 「けれどマライア、あなたがほんとうにイエス様を信じていると言えるのはどのみことばなの」
 「はい。『キリスト・イエスは罪人を救うために来られた』です」 ああ、悲しいかな。このことばはあらかじめ自分でまったくやさしい先生を欺き、もっと先生によい印象を持ってもらおうと準備していた答えであった。愛らしい笑顔をもって先生は私のところを離れた。私の偽った告白によって騙されたのだ。)

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