2016年7月29日金曜日

神様がなさることであって私たちがすることではない


あなたは、箱舟にはいりなさい。(創世記6:18)

 あなたは危険から安全へのこの大事な第一歩を踏み出したいことでしょう。しかし、あなたはそのことが大変容易に見えても大変難しいことを知ります。まるで霊的な悪夢、危険を見てそこから逃れるために手足を動かせないというような悪夢を見ているかのように感ずるのです。恐らくキリストのところに来る人はそれについてこの完全な絶望感を持っていることでしょう。

 これが、聖霊が私たちにすべてのことは神様がなさり、私たちの力ではできないということを確信させなければならないことです。その結果聖霊は始めから終りまで私たちを救うすべての栄光をお持ちになることができるのです。

 それは主が私たちを助けるご意志がないからということでは全然なく、ただ主が私たちに気づかさせようと目論んでいらっしゃるからです。 私たち自身の意志は大変麻痺しているので、主の愛と恵みの火なしには起こされも動かされもしないということです。

 さあ、主のお約束「あなたは箱舟に入りなさい」を信頼しましょう。別のことばでいうなら、主の力と愛は今でもあなたに与えられていることを信じなさい。そしてあなたの絶望感はあなたをイエス様のところに引き出す主の素晴らしい道の一部に過ぎないということです。

さあ 用意されているロープに信頼しなさい
さあ 壊れたマストから離れなさい
安全の望みがとこしえに過ぎ去って行く前に
主の簡素なおことばに信頼することを恐れてはいけません
おことばは余りにも甘美で余りにも練り上げられていて余りにも真実です
だからあなたがたはいつまでも安全です あなたもです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-29-gods-doing-and-not-ours/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97375です。

マライア・ハヴァガルの伝記 3章 家庭での生活(3)

 私の窓に帰ろう。その日は七月のある日曜の夕べだった。私が家に戻ってすぐのことだった。午後眠気眼で時を過ごしていたが、夕拝のための鐘が鳴っていた。人々が集まって来て、墓のあちらこちらに、立っているのが見えた。生と死。墓の沈黙に引き換え、生きている人々の墓の上でのガヤガヤという話し声が聞こえた瞬間、私にパッと、そこに立っている誰もが、また私も死者として横たわり沈黙しなければならないという厳粛な思いにさせた。

 そしてまさしく永遠の一瞥、確かな場所としてある天国と地獄の現実性、そこに私たちの誰もが永遠にいなければならないことを思い、少なくとも誰かに私が信じている主イエス様を見出してもらうように手助けしたいという新しい力にあふれた願いに燃やされた。

私は愛する父が誠実に説教していることを知っていた。また愛する母が体は弱かったが、貧しい人を訪ねていたことを知っていた。〈昔のモリーの家に母のことば「私たちはイエス・キリストの血潮によって、その功しを通してだけで救われた」があったことを決して忘れられない〉私は姉のミリアムが日曜学校の最初のクラスを教え、トラクトを出し、貸し与えたことを知っていたが、私は何もしなかったし、イエス様についても決して話したことがなかった。

 主が栄光を携えて来られた時、「あなたは私を訪ねなかった」と言われませんように。
そのことが原動力となった。へりくだって言えることはまさしく生活の情熱となった。近くの小屋を訪ねるだけでなく、めったに人のいかない野原をトラクトや聖書を持って探しまわり、〈弱い声ではあったが〉私の主であるイエス・キリストについて語った。)

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