2016年7月1日金曜日

たいせつな主の持ち物である私たち

あなたがたがキリストの弟子(マルコ9:41)

 キリストのものとされることにはあいまいさや一般的な性格のものはありません。この関係は特別な現実性で満ちています。「私はあなたのものである」とは「ほんとうに私はあなたのしもべです、私はあなたの愛する子どもの一人です、私は選ばれた兵士です、私はあなたに買いもどされた者です、私はあなた自身の羊です、私はあなたの証人です、私はあなたの友です」ということを意味しています。

 そしてこれらのこと全ては主ご自身の謙遜からなさる宣言でありますゆえ、アーメンあるのみです。 主が私たちはこれらのすべてですと言われます。それに対して私たちは「そうです、主よ、そのとおりです」とただ申し上げさえすればいいのです。なぜ私たちがこの段になってもなお主に反駁しなければならない理由があるでしょうか。

「あなたのもの」ではなく
当然主のもの
今や主の特別な宝物
主が見られるに清らかで貴重な
主が犠牲を払って購入された宝石
主はこのようにして主が求めたものを
維持し心を込めて買われたものを安全に守り
主が選び、つねに愛し、決して失うことのないものを
大事にされるでしょう 

「あなたのもの」ではなく
主のもの、王のもの、天地の主のもの
天使長が深い敬意と高い賛美をもたらすお方のもの
王の誕生は何をおさずけすることができますか
それとも誇らしい称号を示されますか
そのような威厳は
栄光ある名前「主ご自身のもの」
として知られます

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-1-precious-possession/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97347です。

マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(5)
 私のアストレー・レクトリーでの最初の記憶は二歳ごろに経験した痛みだ。夜だった。ベティーおばあさんによって当てられたいくつかの血を吸うヒルにおびえて、愛する母の腕の中に入りたかったのを覚えている。そうだ、看護師さんの椅子や揺り椅子〈今なおウインターダインにはあるが〉を思い出す。さらにもっと覚えているのは愛する母のやさしい顔だ。
 次にはっきりした思い出は信仰だ。私が食堂の窓にあった大きな窓ガラスを割ったのは四歳ごろだったのでないかしら。一人だった。今も見ることができるのだが黒色の馬毛のソファーに跪いて叫んでいた。「どうぞ、神様、窓を直してください」それから跪いたまま振り返った。直されていることを期待して。もう一度祈った。もし見つかったら折檻されることを恐れて。答えが得られないことは私の子どもらしい信仰を妨害したとは思っていない。なぜって私は折檻されなかったのだ。
 日曜日の記憶は六歳ごろから取り立てて鮮明だ。私たちは当時緑色の絹製のボンネットをかぶり、美しい寒冷紗つきのピンク色のかわいいギンガムのフロックを着ていた。髪はアン・レインによっておさげに編んでもらっていた。八時には教会の高い鐘の音が鳴り渡った。)   

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