2016年7月24日日曜日

「きょう」という日

西村明芳さんの作品※

きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。(出エジプト32:29)
 
 これから先、随分時が経ってからでない、また明日でもない、「きょう」だ。あなたは祝福が欲しくないのか。あなたのいただく答えはあなたの父なる神様が「わたしに何をしてほしいのか。」と言われることに対するものではないのか。アクサの「私に祝いの品を下さい(ヨシュア15:19)。」と同じだ。

 ここにはあなたが求めているものの主のお約束がある。あなたは主の条件を喜んで満たさないのか。祝福はただちについてくる。主は祝福がどうなるのかは明確に述べておられない。主は明らかになるのを待っておられる。

 あなたは想定しなかった祝福が、あなたをほんとうに豊かにする祝福があなたのために今日悲しみなしに加えられる祝福があり得ることを知ることだろう。

神の玉座の泉から 深くして広い運河なるお方
救い主なるキリスト 神の御子 
祝福は御子を通してのみ流れる
信仰ある方 真理そのものなる方  主は 
とこしえに 恵みを 新たに私たちにもたらされる
私たちが 高きにある主の家にたどり着くまで
神はあなたがたの必要をすべて与えられる 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-24-this-day/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97370です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(13)

 それから私たちの園内牧師である善良なジェイムズ・パーカー師は若者の指導を気高くも負ってくださった。聖書クラス、堅信礼準備、陪餐会員の教育はすべて有益だった。彼の説教は四つに区分され、それぞれがおそらく八つ九つの「小見出し」だったが、記憶するのに良い止め釘となり、私たちが日曜学校の説教を書き留めるのに役立った。それは私にとって人生の手助けであった。63歳までいくつかの説教を簡略化することなしにまずまずのレポートを正確にできたほどだった。
 悲しいことに私は神様が永続的な愛により、あのイエスを信ずる偽りの信仰告白のあと一年以上、深い悔い改めとほんとうの自らのプライドが傷つけられるようになった道について記録せねばなるまい。もちろん私の愛する家庭教師は私を信じてくれていた。だから私を神の子として大切に扱ってくれた。私は、見かけの上で示した従順さや正確な課業の修得や神様にあっての応答ゆえに、彼女にほんとうに気に入られていたと思う。ただ疑いもなく、私は、学校の中で神様の律法に何らか違反していないか疑いの目で見られ得る最後の生徒であったのではないかと思う。
 そう、いくつかのケーキが応接間からなくなった時、彼女はひどく心を痛め傷ついた。「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている(詩篇14:1)。」「主の御目はどこにでもあり(箴言15:3」が厳粛に祈りの内に問われた。またも応接間で肖像画や美しいものをじっと見つめていたいたずら好きの尊大な行為が彼女のケーキを盗むという恐ろしい堕落へと道を開いたのだった。この時はリジーが見張っていた。その晩、私は愛する場所に喚問された。そこは大変やさしい愛と、大変聖い訴えが私のためになされた。そして私は今や容疑者として立った。
 賢明にして誠実に彼女は私を告白へと引き出してくれた。今でも私は愛する顔が骨の髄まで悲しんでいるのを思い出すことができる。かつて大層な信仰告白をした者が大変悲しむべき罪を犯したのかというのが悲しみのすべてであった。彼女は私の愛する、また聖なる両親を思い浮かべた。それは教師たちにとって私がもはや手に負えないという、また高い評価が消えたという失望でもあった。賢明にも彼女は全生徒の前で私が折檻を受ける恥ずかしめは手控えた。しかしいくつかの特別な奨励賞は剥奪された。そしてそれから、主を悲しませる主に対する罪〈が明らかになっていった〉。私はその時もまた数年間、信仰告白において最初から偽りで歩みだしたことは、テード夫人が誘惑にかかりやすく、堕落する神の子として私を扱っていたほどだが、私が悪魔の声に耳を傾け、キリストを捨ててしまったことをはっきり悟っていたとは思えない。

※今日は茨城県の牛久市中央生涯学習児童センターに出かけた。そこにこのオブジェが公開されていた。そこに作者のことばも書かれていた。「わたしは無限の中でひとりぼっち だから自己表現したい なんらかの意味があると 自分に言いきかせながら」聖書には「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」〈ヨハネ1:16〉とイエス様を紹介し、「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ(コロサイ1:19)」たとパウロをとおして述べられている。「無限の中でひとぼっちじゃない」とは私のひとりよがりの叫びだろうか。)

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