2016年7月4日月曜日

人の心の探索者であるお方

小粒なり クランベリーよ 赤き待つ※

来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。(ヨハネ4:29)

 そうです。キリストは「イエス・キリストの実在」を心から納得するのに足りる「いっさいのことを私たちに知らせる」(ヨハネ4:25)教師だというばくぜんとした一般的な信仰だけでなく、イエスが「私のしたこと全部を私に言った」探索者だという個人的な知悉を与えてくださるお方です。

 これがサマリヤの女性に「この方がキリストなのでしょうか。」と叫ばしめたことでした。これは彼女にとってイエスがメシヤであることを信ずるに足りる抵抗不可能な証明となりました。私たち自身はどうですか。もし私たちが主イエスと真の交わりの何程かを知っているなら、私たちの経験も彼女の経験とは何ら異なるものではないでしょう。

 「ともしびをかざして、エルサレムを捜される」(ゼパニヤ1:12)イエスが私たちの心の暗い部分に、その鋭い炎のような目を向け、遠くまで届きかつすべてを明らかにする光線を、遠く離れ、長く忘れられていた私たちの生涯の曲がっているところにまで差し込まれる時、また、主の光のうちに暗やみを見、主の純粋性のうちにかつてそうであり、今もそうである罪を見る時、「人にその思いが何であるかを告げ(アモス4:13)」それから人が心の中で考えているそのとおりであると認識する時、私たちが「弁明をする(ヘブル4:13)」お方はまことにこのキリストであると知り、自分自身についての真の姿を知るのです。

おお疲れ果てる探求の
ことごとくは幸せに終わり
主は私に語られた
私が潔く必要としたすべてのことを
導きと勝利に足りて
疑いと恐れにまさる
静かな休息にとりて十分な
そしていくつかの隠された答えを
私は読むことができなかったが
主の目からは隠されていなかった 
これはまことに十分だった

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-4-the-searcher-of-hearts/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97350です。

マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(8)

 年齢が進むにつれて、使徒信条や教理、それに書簡、福音書が学ばれ、朝の説教のいくつかが話された。お茶のあと六時に礼拝だった。それから庭の散歩。グーズベリー※やすぐりの木からなる実が夕食となり、私たちが可愛がっている牝牛、リリーとローズの出す乳があった。聖なる光が薄れて行き、母がおやすみなさいと言い祈ってくれた。そのことばは忘れたが、ちっちゃな種はいつまでも播かれたことだろう。日曜日は「週のうちでもっとも最善」にして幸せで楽しい日であった。
 母の聖書にある賛美歌を私は他のどこにも見なかった。その賛美歌はバースのジョン・イースト牧師が彼女に与えたものだった。

 安息の日は近づいているか
 それともその日はまだなのか
 とこしえに続くふるさとを心にかけ
 歌い 読み 祈ろう

 それから急いで
 遅れないようにしよう
 その働きは大変すばらしい
 神に乞い願おう
 私たちの魂が
 決して死ぬことのない糧で
 養われるように

 強くされたい
 天国の道を走るために
 ついにあなたのところに来るまで
 私たちの救い主 私たちの神よ

 あなたととこしえに過ごせる
 完全な光の中で聖徒とともに
 決して終わることのない安息の日だ
 その日は夜がない

 母の大きな聖書はいつも部屋のテーブルの上にあった。よく母が毎日夕方の五時に部屋に入ってほとんどお茶の時間の六時になるまで鍵を閉めているのはなぜだろうと思ったものだ。とうとう私はドアーに挑戦した。鍵はかかっていなかった。〈入ってみたら〉母は聖書を読んでいたのだ。それからというもの私は聖書を以前より大切なものだと思うようになった。)

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