2010年3月6日土曜日

沈丁花本番


 何回でも書きたいと思う。それだけ主の祝福が大きいのだ。昨日も闘病中の愛するAさんをお見舞いして、お交わりをいただいて喜んで帰ってくることができた。

 Aさんは段々体が動かなくなってきた。食事も消化の良いものを食べるようにしているが、最近ではもどすことがある、とおっしゃった。そのような彼と男同士で延々と二時間程度話しをする。歴史から今の政治状況や未来の日本の行く末を知って慨嘆されるAさん。私はもっぱら聞き役である。

 中国の撫順で生まれ、お父様は戦後復員される。生きて虜囚の辱めを受けず、との戦陣訓にもかかわらず生き延びるために日本に帰ってきたとき、日本の敗残兵を迎える視線は冷たかったと言う。長男として彼もまたその戦争の傷跡を受けて育った。しかし、自身の成長に合わせるかのように、世はもはや戦後は終わったと称し始めていた。何よりも彼自身が父親と違って今度は高度経済成長の企業戦士として大いに活躍した。

 その彼が定年後に経験したのは一昨年の癌の発病であった。爾来、押し迫る病苦との闘いが続く。彼の負わされた十字架である。友人を通してイエス・キリストの救いを受けられたことは全くもって僥倖であった。しかしにわか仕立てのキリスト者として、様々なこれまで歩んできた人生の残滓がある。そんなものが今もAさんを捉えて離さない。お嬢さんに五木さんの「親鸞」を買ってきて欲しいと所望したということである。彼の飽くなき知識欲は今も衰えていない。

 今日は私の出身地彦根の話から、井伊直弼論が飛び出し、それから話は発展して徳川慶喜論まで聞かされた。エンジニアーとして生きてきた彼だが、つねに彼の念頭を離れないのは原爆投下を行った人々を始めとする悪への断罪の言葉である。しかし所詮それは自分自身を含めて人間は罪人であることと同義であることに気づいている。そんな人間への鎮魂の思いが彼を捉えている。

 頃合を見計らって、私は聖書を取り上げる。神の言葉である聖書が何と語っているか、それが私と彼との共同作業でもあるからである。今日はローマ8章を取り上げた。ほとんど解説抜きである。互いに一節ずつ輪読する。彼は寝たままの姿勢で重い聖書を持ち上げつつ、老眼鏡もつけずほとんどつかえることなく、声に出して読み上げる。私は彼のベッドの脇で老眼鏡に頼りながらリードしていく。本当言って、途中(25節)で打ち切るつもりでいた。しかし委細構わず、彼の熱意は終わりに向かって疾駆した。とうとう39節まで全て読み終えた。

 病床にいる彼を誰が慰めることができようか。しかし聖書の生きた言葉は彼の衰えようとする精神を再び生き返らせる。まさしく次のみことばのとおりである。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。・・・ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(2コリント4・11、16~18)

 病床で朽ち果てんばかりの病苦においやられていく彼と、こうしておよそ一年になんなんとする、聖書読みが続いている。彼はまさか私のたましいを救うためにも自分が生かされているとは思っていないかもしれない。しかし私にとってこの彼の存在はこの上もなく尊い。ましてや主イエス様は彼を高価で尊いと言われる。晩年に闖入した私という存在を彼もまたやさしく受け留めてくれている。

 ただ主に感謝するだけだ。

(写真はAさん宅の庭の沈丁花。生き生きとして威勢が良い。この窓の奥にAさんは病臥している。「ひとめぐり 沈丁花の 香新たに」「愛するは 沈丁花に 向かう人」)

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