2010年3月11日木曜日

読んだことがないのか 小原十三司


「あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか・・・」(マルコ12・10) 「あなたがたは主の書をつまびらかにたずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである」(イザヤ34・16)

 今年は新たな意味において聖書を読むことを始めている。昨年は不思議な導きと刺激とを受けて聖書を読むことに専念した。特に詩篇を選んで11か月間に12回通読した。誠に粗雑なことであったが、しかしそれでも収穫は多かった。今年は「その恵みをもて年の冠とされる。あなたの道には油がしたたる」(詩篇65・11)との聖言に励まされて、聖書を読むときに、何と言うお恵みだろうとしみじみ感謝している。

 年一回の聖書通読暦は、創世記と歴代志下とマタイ福音書から始められている。福音書を読み続けて、冒頭の聖言にぶつかった。主イエスの何と言うチャレンジだろう。わたしも何かの問題にぶつかって、それが神のみ心をいためるような事を言ったり、したりする時、主は同じような事を仰せられるのではないだろうか? と自問して止まない。キットそうだろう。なぜなれば・・・今までもっと聖書を読めばよいのだ、更に深く、そして聖霊によって熟読玩味して、神のみ旨とみ心を学んでおれば・・・と、いくど教えられ感じたか知れない。それなのに、何と言う不十分なことであったろう。

 そこで新しい決意をもって始めている。すべての事に先んじて、先ず聖書を読め!! 信じて祈れ、今聖霊に満たしたまえと・・・かく信じて立ち上がる時に、全く不思議なように、恵みがその冠である事を自覚する。そして真実「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに」(エペソ3・20)日々栄光を帰することができるのである。

 「あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか・・・神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか」(マルコ12・10、26)と、神には力があり、知恵があり、また恵みがある。更に同情とあわれみとに満ち、「時機を得た助け」を与えるために待ち受けておられる。主イエスは仰せられる、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10・27)と。

 そこで、もう一度出直そう。「汝等勉め励みて主の書の中を探りつつ読め」(イザヤ34・16ヴルガータ訳)今に予言の一つ一つもみな成就するであろう。パウロの「わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読すること・・・に心を用いなさい」(1テモテ4・13)との勧めに従って、主イエスの来たるを待ち望みつつ、聖書をつまびらかにたずねて読む者にしていただきたい。そうすれば、ウエスレーやミューラーや、ムーデーの受けた祝福が私たちにも与えられるに相違ない。お互いに勉め励みて前進しよう。

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著74頁より引用。写真はロダン作「パンセ」。40数年前に東京の美術館で初めて見た。偉く感動して、その前から動けなくなった記憶がある。当時無神論者であった私は「精神」はそのようにしてしか形成されないと思っていたからだ。それからしばらくして勤めていた学校図書館で一冊のパスカルによる『イエス・キリスト小伝』を読んだ。主を信じようと思った。爾来無神論者変じて40年間主を信ずる信仰者に変わった。今から6年前、ルーヴル美術館で再び対面した。あの若き時の感動はすっかり薄れてしまっていた。しかし何の造作もなくそこらへんに転がっている感じで展示されていたのには、内心驚かされた。「罪咎も イエスの血にて 贖われ  新創造と パンセ語りし」「聖言に 従いたしと 変えられし みわざ思えば 懐かしロダン」 )

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