2010年3月25日木曜日

五、バイブル・クラス


 『M先生と、ヴォーリズさんが同居をしたそうやなあ、君』
 『うん、昨夜、僕がなあ、ポリスさん所へいったら、僕と君とに宿替えして、うちへ来いというてたぜ、どうしよう』
 商業学校の二階廊下でOとよばれるデブ青年で、機械体操の金棒にぶら下がると、金棒が湾曲するので有名な体重十九貫の本科二年生と、Iとよばるる棹竹のようにヒョロ長い、子供子供した同級生が話していた。
 『春休みが来たら、それじゃ、宿替えして異人さんと同居しようか』
 『うん、しかし、ポリスさんて、妙な人やぜ、入る部屋もないのに同宿するというのやからなあ、それ、入り口の上の六畳は片目のコックがいるやろう、その次の間は玄関の隣で、靴のままポリさんがどしどし上がってくるし、奥は主人公の占有する所、その隣はM先生とくる。僕等は差し詰め何処においてくれるつもりかしらんて』
 『そいつは聞かなかった。しかし来いというからには場所があるに違いはあるまいぞ』

 明治三十八年の三月が来た、学年試験もすんで、ホッと重荷を下ろしたように感じた。OとIはある日、ヴォーリズさんの暗い借家に出かけていった。
 『カム、イン』とニコニコのヴォーリズさんが、ムッとするほど暖かくした部屋から出てきて、両人を手を取るばかりにして、自分の部屋に案内する。
 英語でヴォーリズさんは、新しい部屋ができた旨を話してくれたが、その要領は次の通りであった。

 『日本人が家をたてると、屋根裏の利用と、煙突を作ることを考えないらしいです、この私の借家には屋根裏が大きく明いていますから、街道の方に硝子窓を二つ大工につけさせました。君たち両人は表の屋根裏に住むことにしてください。私は明日君達といっしょに屋根裏の、煤けた梁や柱に新聞紙をはってあげる。壁は白い洋紙一枚二銭のを二重張りにすると、白壁の代用になるから、早速、明日は部屋の準備に二人から朝早くからきてください』

 OとIは度肝を取られてしまった。何しろ、異人さんは、建築の趣味があるというので、無暗に屋根裏へ靴のままガサガサ上っていって、柴やら炭俵の古いものを積みあげてある湖畔地方の、ツシと呼んでいる物置に我等を親切にもいれてくれる考えであるらしい。てっきり、鼠と合住居をやらされるのだ。デブにヒョロの二人が、縦にも横にも屋根裏の柱とに衝突することなんかお構いないらしい。

 『おい、O、どうしよう。僕は生まれてから、あんな屋根裏に上がった事もない。鼠の糞が1斗位あるぜ』
 『I君、僕等は辛抱して今のうちに異人さん所の書生になって、英語をうんとたたきこんどくと、将来の力になるからな、辛抱して宿替えしてくることにしょうや』

 その翌日、OとIがヴォーリズさんの借家にくると、大きな西洋皿に姫糊がいっぱい、大はけ二つに、古新聞と洋紙の、材料が整っていた。二人は屋根裏にのぼった。煤と、塵と、鼠の糞の異臭のなかに、ヴォーリズさんは総指揮官で三人は表具屋とも、掃除屋ともしれぬ仕事に一日を暮らして部屋を作った。そして畳屋がきて、床には新しい上敷きをしいてくれた。
 それからOとIの二人は屋根裏ではあったが、ヴォーリズさんと同居することになった。
 しばらくしてその他にはM先生の部屋に割り込んできたKと、コックさんに頼んで同居を許してもらったYがあった。そしてヴォーリズさんは、学生四人とM先生を同居させたわけである。

 その頃、学生は絶えずヴォーリズさんを訪問した。ヴォーリズさんはバイブルクラスをしてやろうとその学生達に話したから、好奇心にかられて、クラスに来ますと約束すると、ヴォーリズさんが戸棚の中から立派な一冊五十銭もする、五号活字略註附新約全書を幾冊でも出してきて、惜しげもなく学生にくれてやるばかりか、表紙をひろげて、一々美しい英文で、

 「この律法の書を汝の口より離すべからず。夜も昼もこれを思いて、その中にしるしたる所をことごとく守りて行え。然らば汝の途、福利を得、汝かならず勝利を得べし」

 と書いてウィリアム・メレル・ヴォーリズと、日本字で言えば上手な髯題目、南妙法蓮華経とハネ上げた字風を横にしたような、シグネチュアー(自署名)をして一人一人に、ロハでくれた。それで大勢の学生は大喜びで聖書研究会にくることになった。

 人生意気に感ずるという事がある。若いアメリカの青年ヴォーリズさんが太平洋を渡るにも借金をして旅費を作ってきておりながら、八幡に到着するなり、第一ヶ月目の月給から惜しげもなく大金五十幾円を割愛して、聖書を百幾十冊も買い込んで、戸棚にいれておいて、学生にロハでくれてやった程、綺麗サッパリした気前には、隠れたるもの顕われざるはなしで、引きつけられ、吸いつけられ、遂には学生連の愛慕の的とまで変じていった。実にヴォーリズさんは、金ばなれのよい切れ手であった。

 聖書研究会の最初の夕は四十五名であったが、度かさなるに従って、その来会者の数はまし、一週二晩二組として、出席者二百十二名となった商業学生の全数は三百余であるから約三分の二強は喜んで出席している有様になったのである。そしていよいよ宗教運動がヴォーリズさんを中心として捲き起こることとなった。

 以上が第五章「バイブルクラス」(『近江の兄弟』吉田悦蔵著15~19頁より引用)である。読めば読むほど驚くばかりだ。昨日高校の同級生で悦蔵氏の親戚に当たる方からお手紙と同書が送られてきた。私はヴォーリズさんに会ったことはないが、彼は生前のヴォーリズさんに会っているし、今は惜しいことに壊されてしまったようだがヴォーリズさん設計の家だった、と聞いている。今日も絵(「シロの話」連作7枚のうち二枚目のもの)を拝借させていただいている谷口幸三郎さんの父君も先年主イエス様を信じて召されたが、この商業学校の出身である。こうして考えてみると意外に近江にもたくさんの兄弟がいることに気づく。ヴォーリズさんが美しい英文を書いた聖書の箇所はヨシュア記1・8である。ヴォーリズさんに敬意を表して、以下欽定訳聖書の同箇所を写し取っておく。

This book of the law shall not depart out of thy mouth; but thou shalt meditate therein day and night, that thou mayest observe to do according to all that is written therein: for then thou shalt make thy way prosperous, and then thou shalt have good success

 

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