2011年12月9日金曜日

向こうの村へ行きなさい

St. Girgen(Wolfgangseeの北西に位置する)から見た湖岸と山並み by Keiko.A
それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのペテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。・・・」(新約聖書 マタイ21:1〜2)

 この事件の結末は、エルサレム全市が興奮に巻き込まれることになります。主イエスに対する歓呼の声が町中をうずめ尽くします。人々がこぞって、この方をたたえるのです。そうです。この事件の結末は壮大なものです。

 けれども、その発端は、取るに足りない、たわいないものです。ふたりの弟子が、向こうの村に行ってろばを捜すようにと、命令される、それだけのことです。

 しかし、このような発端は、主イエスにかかわる場合の、典型的なものだと言えるでしょう。全くひそやかに、静かに、事が始まるのです。主がこの世においでになったとき、それは非公開のようにして起こりました。ほんの二三人の羊飼いに知らされたにすぎません。また、よみがえられたのも、全く内密にさりげなく起こったのです。

 神の御国のすべてのみわざは、世界宣教も国内宣教も、ごくささいな目立たない発端から始まったものです。

 主イエスも、こうおっしゃいました。「天の御国は、からし種のようなものです。・・・どんな種よりも小さいのですが」、やがて、驚くほどの力を持ち、大きな木にまで成長する、というのです※。

 この世の、ほとんどのことは、この逆を行きます。鳴り物入りの幕開けが、早晩、悲しい結末を迎えるのです。

 神の知恵を知ろうとする人にとって、これは大切なことです。彼らは、にぎやかさにだまされないで、小さな事柄の中に働きたもう、主イエスの御手に目を注ぐべきです。

  主よ! あなたのみわざをさやかに見定める目を、
  我らにお与えください。          アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月9日より。※一般にはからし種をこのように取る方が多いが、聖書全巻の用法から「からし種」を悪魔の働きとする考え方もある。)

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