2011年12月15日木曜日

シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。

沼津から国府津までの御殿場線車中から見た富士山です。(12/12)
「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。・・・』」(新約聖書 マタイ21:5)

 新約聖書の記事には、注目すべき一貫性があります。それらの記事はいずれも、ある一回限りの歴史的事実を伝えています。すなわち、ほぼ二千年昔に起こった事件を語っているのです。しかし、大切なことは、たとい、聖書の記事が、ある一回限りの過去の出来事を伝えているとしても、それらは繰り返し、こんにちでさえも起こることなのです。

 主イエスは一度だけゴルゴダの十字架につかれました。が、それ以来、世界は繰り返し、主を釘付けにしています。主は一度だけ葬られました。が、それ以来、どの世紀も、主を葬り去らなかったことはありません。そしてまた、すべての世代が、主がいかに力強くよみがえりたもうかを、新たに経験しました。

 一度だけ、主はナインの町の門で、涙にくれる母親に、「泣くな!」※と仰せになりました(ルカ7:13)が、こんにちに至るまで、主は悲しむ人々に、慰めをもって声をおかけになります。主は一度だけナインの若者を生き返らせなさいました。が、それ以来、何百万という人が、「我らは、死からいのちに移されたことを知っている」とあかししてきました。

 イエスのエルサレム入城についても同じことが言えます。これは古い出来事です。全くそうです。けれどもまた、こんにち、我々の騒がしい、刺激的な、支離滅裂な世界で、毎日起こっていることでもあるのです。「見よ。あなたの王がおいでになる。」これは事実です。実際に起こることです。我々がそれを認めるかどうかに、すべてはかかっています。

 我々の心には、多くの疑問、悩み、問題が満ち満ちていることでしょう。が、「主は来られた、主は来られた。/愛と歓喜に満ち満ちて/すべての悩み、不安をしずめるために/あなたのことをすべて知る主は来られた」という賛美を聞くなら、すべての問題の上に、すべてを全く変える光が投ぜられます。

 主よ!
 エルサレムへの入城を、きょう我らのうちに
 再現してください。そうすれば我らの心は喜びにあふれます。
                                                                       アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月15日より。※現行の新改訳聖書では「泣かなくてもよい」とやややさしげな言い回しになっている。昨日も家庭集会でベック兄からクリスマスメッセージをお聞きしたが、様々な問題悩み困難がある中で、気持ちに奪われることなく、意志でもって主を喜ぶことです、とハバクク3:17を引用され奨励されたのだが、根源は同じだろう。王を迎えるためには、たましいを失って主の来臨を喜んだ博士、羊飼い、シメオン、マリヤ、ヨセフ、エリサベツに見習うべきで、たましいを失うのを恐れて主の来臨を無視した宿屋の主人、ヘロデ王、大多数の主の来臨に無関心な人々は惨めであることが示された。ゼカリヤ書2:10「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。」

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