2013年7月6日土曜日

すべて益になる(承)ゴットホルド・ベック

なぜか、どうしてか、何のためかと考えると、今話したように、まず言えることは支配したもう主なる神は、悩んでいる人々、苦しんでいる人々、孤独になっている人々が救われるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにされておかれます。大切なことは人間が真理に、真理の認識に至ること、すなわちイエス様に出会うことです。どれほど多くの人間が(イエス様に)関心もなく、そして自分たちが真理を知らないのだということに気がつかないでいることでしょうか。

ですから、次のように言うことがまったく正当でしょう。人間は救われる前にひとたび失われた状態になければならない。すなわち人間は主なる神が人間を救ってくださる前に、まず自分の失われた状態を認めなければなりません。物質的なものが満ちあふれ、目に見えるものにがんじがらめとなってしまっているため、永遠のものや生けるまことの神について深く考える時間がない。このことが現代の特徴なのではないでしょうか。多くの人は救い主を持つ必要性に対して盲目ですが、たとえそのことを認めざるを得なくなったとしても依然として逃げようとするのです。その方々は静かになって人生の意味を考えたり、死後の世界を深く考えたりすることをしたがらない。このことこそ主なる神が多くの不愉快なこと、困難なこと、理解することができないことをわれわれの上に来らせることの理由です。

このような主の導きの目的はご自身のもとに引き寄せること、また赦しと人生の内容を与えてくださることに他ならない。聖書の中から一つの実例を見てみましょうか。ルカ伝15章、有名な放蕩息子の話なんです。ルカ伝15章の中で色々なこと書いていますけれど、いわゆる放蕩息子は自信に満ちて両親の家を去りました。意識して彼は自分が選んだ道へ行ったのです。彼は何ものからも束縛されず自由に自分の人生を楽しもうとしました。自分自身の道を行きたいと思う者に対しては主は反対しない、好きなようにされます。たとえ最初はすべてのことが望み通りうまく行くように見えたとしてもやがてすべてのことが失敗に向かうときがやってまいります。そして、その結果、突然すべてのものが自分に反対しているように思われるのです。お金は間もなく使いはたして、それまで友だちと思われた人々からは捨てられることになりました。すべてのものが失敗してしまったのです。ちょっと二、三節読みましょうか。ルカ伝の15章の14節から

何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり(これも偶然じゃない、大飢饉が起こり)、彼は食べるにも困り始めた(主のせいでした)。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた(ユダヤ人にとって一番嫌な仕事です。乞食した方が簡単ではないでしょうか、豚の世話をさせた)。(そして)彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。(ルカ15・14〜16)

けれど、この導きによって、すなわちこの深みへと導かれたことによって、彼はただ単に自分自身に立ち返っただけではなく、そのことによって父の住まいへ戻ることになり、まことに満ち足りた幸いな人生へ入ることができたのです。多くの場合、人生の途上には恐ろしくたくさんの困難が横たわっています。しかし主はつねに一つの目的をもっておられます。すなわち私たちどうしようもないものをゼロの点にまで低くすること、あるいは破産することをそれが主の取られる方法であり、その限りにおいてすべてのものは自分自身の助けになるものを失い、心から悔い改めることにより、また主を信ずることにより、主なる神のみもとに行くことが可能となるのです。

なぜか、どうしてか、何のためか、と考えると、今まで見て来たように支配したもう主なる神は罪人が救われるためにそれらの多くの出来事を起こるがままさせておかれます。主が人間に正しい理解と悔い改めを得させるために、確かに多くの事柄を失敗するがままにさせておかれることを見てまいりました。

次になぜか、あるいは何のためかという問いについて、もう少し考えてみましょうか。答えは三つです。今話したように、まず支配したもう主なる神は人が救われるために、まことの救いを自分のものにするために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるということです。第二番目の答えは支配したもう主なる神は今度は信ずる者が変えられるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにさせておられます。しかし救われていない人々だけでなく、信ずる者もまたいわゆる運命のなすわざを経験するのです。信ずる者もまた同じように失望落胆し、なぜこんなことが起こるのか、どうしても理解することができない場合に遭遇いたします。

なぜ主は信ずる者が厳しい試練に会うことを許されるのでしょうか。それは彼らの教育のためです。彼らの聖めのためです。また彼らは主の御姿に変えられるためです。それを証明するために聖書から二ヵ所ばかりちょっと読んでいただきたいと思います。もう一回ロマ書8章初めに読んだ箇所ですが、もう一節読みます。277頁でしたね。ロマ書8章28節

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

これは初代教会の人々の確信です。ここで「知っている」と書いています。原語を見ると「確信する」と書いています。「すべて益になる」 29節

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

とあります。われわれの人生の途上に横たわっているものすべて、またわれわれの人生の中に入り込んで来るものすべては主によって用いられており、したがって無価値なもの、無目的なるものは何一つありません。大切なことは私たちが新しく造り変えられること、主イエス様に似た者になることです。

(ある方は試練のなかにある私たちに対して「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」とみことばを送ってくださった。ベック兄のメッセージもまた同一のものであることを思わされる。考えてみると今日はあの青天霹靂の出来事から50日目になる。七週が経過した五旬節の日に相当する。主は確かなご計画をもって私たちを訓練されている。)

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