2018年2月28日水曜日

天国(上)

 昨日は一人の友を、皆さんと一緒に病院にお訪ねした。月曜日、緩和ケアの病室に入られたばかりであった。昨夏以来、数ヶ月ぶりにお会いした。病のために痩せられたが、私たちを前にしてご自身の日記を読み上げられた。2月7日のものは、「私は天国へ行きます」という内容の心を打つ文章であった。過去自分は不真実なところがあったが、それにもかかわらず、主イエス様はよくしてくださったというものであった。その後、ウェスレーのお好きなメッセージも読んでくださった。そのあと、皆さんで讃美し、ともにお祈りして帰って来た。

 今日は家庭集会であった。メッセージは「永遠のいのち」に至る道そのものであるイエス様の紹介を十分してくださった。証は先年召されたご主人がどのようにして主に導かれて「天国」へと旅立たれたかの話であった。

 そこで、今日と明日二回に分けてA.ドーフラーという方が書かれた「天国」についての文章を引用することにする。

「キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。」(ヘブル人への手紙9章24節)

 聖書の中で天(heaven)ということばは、二つの意味に用いられています。一つは、わたしたちの目で見ることができる天をさしています。創世記1章8節には、「神はその大空を天と名づけられた」と書いてあります。ペテロの第二の手紙3章10節に、「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消えさり」とあるように、この天は過ぎ去るものです。

 聖書に用いられているもう一つの意味は、キリストが、信じる者をすべてお連れになる神の永遠の住まいをさしています。「わたしの父の家には、たくさんのすまいがある。・・・そして行って場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」とヨハネによる福音書14章23節に述べられています。

 この永遠の天国は、過ぎ去ったり、消えたりするものではありません。テサロニケ人への第一の手紙4章17節には、「こうして、いつも主と共にいるであろう」としるされています。この永遠の天国をじゅうぶんに説明することは、人のことばではできません。それについて、コリント人への第二の手紙の12章2、4節には、「わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた・・・。この人がパラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならないことばを聞いたのをわたしは知っている」としるされています。

 それにもかかわらず、天国について多くのことが言われています。わたしたちが患難に会い、病気で苦しんでいる時は、ことに天国への関心が強まります。この時こそ、わたしたちは信じる者すべてに約束された永遠の住みかについて、喜んで学ぼうとします。

 天国はどこにあるのでしょうか。聖書ははっきり言っておりません。しかし、ヨハネによる福音書にしるされた、「わたしは行って、あなたがたのために場所を用意する」というイエスのことばによって、天国があることは確かです。

 どうすれば天国に行くことができるのでしょうか。聖書は、イエス・キリストという唯一の道を通してのみ可能であると教えています。ヨハネによる福音書14章6節には、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」としるされています。天国に行くことができる人たちは、イエスが流された血によって自分たちの罪が洗われ、清められたことを信じる人たちです。ヨハネの黙示録5章9節には、「あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない」としるしています。イエス・キリストこそ自分を罪から救ってくださる救い主であると信じる者すべてに、天国は約束されています。「それは、み子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とヨハネによる福音書3章16節にしるされています。

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