2019年5月18日土曜日

ある日の家庭集会裏話

皆様をお迎えした花々

きょう、救いがこの家に来ました。・・・人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。(ルカの福音書19・9〜10)

 家庭集会なるものを開かせていただいてもう何年になるのだろうか。けれども、すべて物事には始まりがあれば、必ず終わりがある。この家庭集会もそろそろ終活の時期にさしかかってきた。それがいつになるのかはわからない。

 ただ、家庭集会は福音をお伝えするのが目的であるから、体が続く限りやらせていただきたいと思っている。それどころか、私たち夫婦にとり老化防止に大いに役立っている。特に私にとっては。皆さんが帰られた後、どなたが来られたか、お名前をあげて確認する楽しさがある。お顔を思い浮かべ、名前までも確認するのに、結構歳をとり弱くなった私の脳がフル回転させられるからである。

 ところが、今回この作業が意外なところで役立った。それは一人の方がイザ帰られる段になってご自分の履いてこられた靴が見当たらなくなる出来事が生じたことによる。その方は私と一緒に集会が終わってから、病院に一人の方をお見舞いする手筈だった。最後に、靴は二足しか残っていなかったが、もう一人さらに遅くまで残ることになる方がこちらが自分のだと言われる。残された一足を前にして、その方はこれは私の靴じゃないと言われる。止むを得ず、サンダルをお貸しし、取り敢えずは病院にその方の車で出かけることができた。

 帰ってきてから、どなたかから履き違えの電話連絡がなかったか、心頼みにしていたが一向に連絡がない。がっくり来た。主催者として何とお詫びして良いか、困り果てた。その時、一計が思い浮かんだ。そうだ、私は来られた方々の名前を把握しているのだ。それぞれの方にこちらから確認できる。しかも、出席者の大多数の方のメールアドレスを教えていただいているじゃないか、という思いだった。二、三手間取ったが、それでも最終的には文明の利器を利用して絞り込むことができた。

 そして、今朝になってご本人が直接拙宅まで歩いてその靴を返しに来られた。そのあとすぐ、間違えられた方には私の方から靴を持参しお返しすることができた。水曜日の家庭集会から、丸二日間、時間はかかったが、こうして無事、靴はそれぞれの方々の元の鞘に収まった。靴を間違えた方とはまだお会いして二週間足らずだが、二回の礼拝の日、そして先頃の家庭集会の日、そして今朝の拙宅での玄関先の上り框での会話と都合4回を数えることになったが、その方の孤独病は果たして癒されただろうか。

 孤独でない魂は一人として存在しない。主イエス様は私たち一人一人を用いてその孤独な魂に触れなさい、福音を伝え続けなさいと語っておられるのでないだろうか。

 なお、お見舞いした方は、入院先から、朝、その靴を間違えられた方に「(私は入院中だから行けないけれど)今日の家庭集会に行ってくださいね」とお誘いの電話をされたそうだ。でも、こうしてその方の祈りが答えられ、出席されたのだ。

 「家庭集会に私の知人が出席しますように」「靴の取り違えが解決しますように」などなどと、家庭集会は多くの人々の祈りが聞き届けられるように、主ご自身が開いておられることを忘れてはなるまい。次回は6月19日だ。読者諸氏も祈りのうちに覚えてくだされば幸いだ。

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