2013年8月27日火曜日

いかにして主イエスとの深い交わりに至るか(起)

江戸東京たてもの園内の樹木 小金井市
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(新約聖書 ヨハネの手紙第一1章3節)

初代教会の兄弟姉妹について、聖書は何と言っているかと言いますと、彼らは確かに当時の社会の中で異分子であり、迫害され、憎まれた者でした。けれどそれと関係なしに喜びと希望に満たされたのです。秘訣とは私たちの交わりは父ならびに御子イエスである(ということです)。われわれも毎日この事実を覚えるべきなのではないでしょうか。そうすると、心配から、不安から、孤独から解放されます。

今朝ひとつの質問についてだけ考えてみたいと思います。すなわち、いかにして主イエス様との深い交わりに至るなのでしょうか。

聖書の良き知らせとは、イエス様ご自身がわれわれ人間との交わりを持ちたく思っておられると言うことです。どうしてであるかわかりません。け(れ)どもほんとうなんです。主イエス様は世界の創造主であり、見えるものも見えざるものもすべて(を)お造りになったお方ですけ(れ)ど、われわれ人間のために悲しんでおられます。われわれ一人一人を思っておられます。私たちと、主イエスは交わりを持ちたく思っておられます。イエス様はただ一つの要求を持っておられます。われわれと交わりを持ちたく思っておられます。私たちも同じ要求を持っているなのでしょうか。

多くの人は「もちろん(持っている)」と言うでしょうけれど、ほんとうにそうでしょうか。

今読んだマタイ伝の14章29節に

イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。

とあります。ペテロはこの要求を持っていたから、舟から出て水の上を歩いてイエスの方に行ったのです。ペテロは自分の信仰を実験しようとしたのではありません。すなわち舟から降り水の上を歩けるかどうか試したのではありません。決してそうではありません。ペテロの心の願いはイエス様のところへ近づくことでした。イエス様をよりよく知るということこそが、いつも変わらないわれわれの願いでなければならないなのではないでしょうか。

主イエス様よ、あなた様との結びつきが増々緊密に親しく完全になりますように。多分他の弟子たちは、考えたことでしょう。「ペテロは何をしようと言うの、舟に残っていたら良いのに。ペテロはいつも変わったことをする。わたくしたちは舟に残っているというのに、なぜペテロは水の中にはいっていくのだろう」 ペテロはイエス様のところへ近づきたいと切に望んだのです。いや、イエス様のところへ近づくこの要求が、ペテロの心の中で強く叫んでいました。ペテロはもっとイエス様に近づきたい、救い主ともっと交わりを持ちたいと切に望んだのです。ペテロはうしろを振り向きませんでした。ペテロは、いまヨハネやヤコブが何を考えているだろうなどとは考えようとはしなかったのです。これはいいことか悪いことかなどとヨハネやヤコブに尋ねません。ペテロはただイエス様を見つめています。

もし私たちが他の人を見たならば決して前進いたしません。イエス様にもっと近づく、これこそわれわれの願いではないでしょうか。もし私たちが神の子であるなら、イエス様にほんとうの意味でしたがおうと思えば、イエス様ご自身をよりよく知りたいと思うでしょう。もし私たちがイエス様を知ったならば、イエス様になおも要求を持つでしょう。なぜならば、イエス様もまたわれわれに要求を持っていたからです。

どうしたらわれわれの救い主イエス様との深い交わり、結びつきに至るなのでしょうか。答えは四つです。第一番目、主イエスの啓示によってです。二番目、イエス様の啓示に対するわれわれのこたえによってです。三番目、イエス様の召しによってです。そして四番目、信仰の従順によってです。

イエス様は「弟子たちに向こう岸へ行きなさい。」と言われたので、弟子たちはしたがって出かけました。け(れ)ども、まもなく強い嵐がやって来ました。風は彼らに逆らって吹いて来ました。イエス様は弟子たちを強いて舟に乗りこませて、向こう岸へ行きなさいと行かせたのです。け(れ)ども、弟子たちは今絶望的な状態にあります。イエス様の行けと命じられた途中に困難があるかも知れない。弟子たちの場合はあったんです。け(れ)どもイエス様はいつもはっきりとした目標を目の前に持っておられます。イエス様は弟子たちにご自身を明らかにされ、それによって弟子たちと親しい交わりを持ちたく思っておられました。イエス様は弟子たちが悩んでいるのをご覧になりました。けど、すぐに彼らのところに来ませんでした。

イエス様は弟子たちと親しい交わりを持ちたいと思いましたが、まだ時が早過ぎたのです。多分私たちは今悩みを持ち、それに対して逃れ道がないかもしれません。たとえ私たちがまだ祈りの答えを聞いていないにしろ、イエス様はわれわれの苦しみを見ておられることを知るべきです。夕方イエス様は祈るために山へ上って行かれました。そして、夜明けの四時ごろ弟子たちのところに来られました。イエス様は父とお語りになるために長い間祈りました。そしてイエス様は弟子たちを長い間苦しみの中にそのままにしておかれたのです。しかしイエス様はご自身をあらわすために弟子たちのところにやって来ました。けど、弟子たちは驚きに打たれ、恐ろしさのあまり、大声で叫んでいました。弟子たちは臆病者ではなく、強い漁師だったはずです。けど、彼らはそのようなことをいまだかつて経験したことはありませんでした。「誰か水の上を歩いて来る。それは幽霊にちがいない」と彼らは思ったのです。

私たちはどうしたらイエス様との親しい交わりに近づくことができるなのでしょうか。イエス様の啓示によってのみ可能です。すなわち生活の困難の最中におけるイエス様の啓示によって主との親しい交わりに近づくことができるのです。

弟子たちはイエス様によって夜中に向こう(岸)へやられました。弟子たちは嵐の中に棄てられました。しかし、これは主の導きでした。そのような困難の中で主イエス様はご自身をあらわしました。けど、弟子たちは恐怖のあまり叫び声をあげました。弟子たちはイエス様がご自身をあらわすためにこのような困難の内に導き、それによって主イエス様とのより深い交わりを持つためであることをまだ知りませんでした。

何と多くの人々は嘆いているでしょう。すなわち、なぜ私は良い働き場所を持っていないの?なぜ私には良い両親がいないのでしょうか?なぜ私の家はこんなに暗いのでしょうか?なぜ私は健康でないなのでしょうか?なぜ私はいつも困難がつきまとうなのでしょうか?なぜ私だけに悩みが降り掛かってくるなのでしょうか?このような質問を持っている方はいっぱいいます。

イエス様は取りも直さず私たちと親しい交わりを持ちたく思っておられます。ですから、イエス様はそのような困難にお導きになったのです。多分私たちはその導きをわかっていないかもしれないけれど、イエス様はわれわれをそのような苦しみ、困難、またそのような理解しがたいことによって、ご自身をあらわしたいので、私たちをイエス様との親しい交わりに導く、それを信ずべきです。

(御代田での8月25日の福音集会のゴットホルド・ベック兄のメッセージの聞き書きである。今日から四部に分けて連載する。なお同趣旨のメッセージは『光よあれ』7集に載せられているが、今回新しい言及がある。「主は生きておられる」の何よりの証である。私ども家族を見舞った困難もこの日曜日でちょうど100日を経過したが、このメッセージをとおして主をますます恐れる者である。)

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