2012年6月11日月曜日

御霊の力による従順

by Sumiko Gotou

 御霊なる神様は主イエスを信じている一人一人のうちにすでにいらっしゃる。だから「聖霊をいただきとうございます」というポーロ・S・リース氏が紹介しているマイヤー博士の伝記に書かれている個所は私にとって少し首を傾げるところであった。でも恐らくその意味は聖霊に満たされることを求められたと解するのが適当なのでなかろうか。すでに博士は御霊なる神様を信仰によってうちに宿しておられるのは当然であるからである。そのことが気がかりで昨日は聖霊はどのようなお方かと「人格」であることに的をしぼって資料を紹介させていただいた。

 今日は「御霊に満たされることの意味——エペソ5:18〜21——」(D.M.ロイドジョンズ著鈴木英昭訳)から少し引用させていただく。この書でロイドジョンズ氏はキリスト教道徳倫理によって結婚問題、家族問題、産業問題、世界平和問題の抜本的解決が可能であるかのような当時の社会風潮※に対してそれは聖書からして絶対不可能だと言い、その根本原因は人が聖霊によって新生する必要を認めないことにあるとして、パウロのローマ人への手紙の個所を引用しながら、以下のことを指摘する。(引用は同書54頁〜56頁による)

 指摘すべきことは、聖霊に関する聖書的教理の完全な否定ということである。使徒パウロは、すべての人々に「互いに仕え合いなさい」とは命じていない。(略)彼は、まず「御霊に満たされなさい」と言ってから、互いに仕え合うよう求めている。彼はそうした行動が、その欠かすことのできない予備的な状態を抜きにしては、不可能だと言うのである。しかし今日、人々は聖霊を信じない、聖霊の人格を信じない。彼らは「キリスト教の精神」とか、「兄弟愛と善意の精神」などについては語る。しかし、それはキリスト教ではない。それは道徳であり、異教の教えである。

 祝福に満ちた三位一体の第三人格である神の聖霊について、一つの教理がある。聖書的な教えによれば、聖霊から離れて、人には希望がない。聖霊は何をなさるのか。第一に、「世に罪と義と裁きとを自覚させる」。世は罪を信じない、だから罪を自覚させられる必要がある。聖霊はそれをするために遣わされる。キリスト教はこれまで、およそ二千年間にわたって宣べ伝えられたが、世はいまだに罪を信じない。義も信じないし、裁きも信じない。それなら何を信じるのかといえば、世は世自体を信じ、人間を信じ、人間の力と人間の善を信じる。それはキリストの教えと正反対である。

 聖霊はそれ以外に何をなさるか。なぜ聖霊は遣わされたか。祝福に満ちた教えのことを思い出していただこう。聖霊は、私たちに自分の罪を自覚させ、キリストにある「その血による」救いを私たちに示した後で、何をなさるのか。聖霊は私たちに新しいいのち——再生——を与えてくださる。それは私たちの主がニコデモに教えられたことである!彼の語られたことを聞きなさい。彼がニコデモの言われたのは、こういう意味である。

 「話すことはやめなさい。問うこともやめなさい。よくよくあなたに言っておく、人は御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできない。あなたはもう一度生まれなければならない。御霊によって生まれなければならない」(ヨハネ3:3〜8)。わたしはあなたと、わたしの国のことを論ずることはできない。私たちの主は、あの優れた道徳的で宗教的な人、ニコデモにおっしゃった。

 今のままのあなたでは、それを理解することは不可能なので、あなたと論ずることはできない。「あなたはもう一度生まれなければならない、とわたしが言ったからといって、驚くには及ばない。肉によって生まれた者は肉であり、御霊によって生まれた者は霊である。」あなたは理解しようとしているが、できない。あなたが神の国に入る前に、もう一度生まれなければならない。そのようになれば、理解し始める。

 それなのに、人々がいまだにやっていることは、不敬虔で、神を信じない国家にたいし、新しく生まれていない男女、キリスト者でない彼らにたいして、キリスト教の道徳原理の教えを唱道していることである。

 そうした行為は、キリスト教の基盤全体の否定である。聖霊は、人を再生させ、新しい性質を与え、新しい思い、新しい展望、すべて新しいものを与えるために、送られている。それを度外視しているなら、何の望みもない。聖霊はまた、私たちの聖化——「御霊に満たされなさい」——の増進のために送られている。互いに平和に過ごすことができる人々は、神の聖霊によって支配されている人々だけである。

 これが、結婚問題、家族問題、産業問題の解決策である。人々が聖霊に支配され、満たされると、そうした問題のなかに存在している悪がわかってくる。そして、自分自身を抑制し、「主の恵みと知識のうちに成長し」、親密さと一致とが可能になってくる。しかし、そうなるのは、私たちが「御霊に満たされて」いるからである。御霊なしには不可能である。このように、聖霊は私たちの聖化を増進するため、また私たちを支配し、神が私たちにさせようとしておられる生活を可能にするために、遣わされている。

酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。(新約聖書 エペソ5:18、21〜22)

※当時とは1959年のことでその年、米ソの冷戦下でフルシチョフの活躍ぶりが西欧キリスト教社会で喝采を受けるような素地が幾分あったかのようである。(引用者註)

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